※フレームを付けます。メニューがない時はクリックしてください。
御代の番号を押してください。
 左欄がの様な色、赤文字は女帝です。
■天神  1234567前7後
■上古  12345678910111213141516171819202122232425

■鵜葺草葺不合朝(うがやふきあえずちょう)   21代  22代  31代 

■神倭朝(現在)
1. 2. 3. 4. 56. 7. 8. 9. 1011.12.13.14.1516.17.18.19.2021.22.23.24.25
26.27.28.29.3031.32.33.34.3536.37.38.39.4041.42.43.44.4546.47.48.49.50
51.52.53.54.5556.57.58.59.6061.62.63.64.6566.67.68.69.7071.72.73.74.75
76.77.78.79.8081.82.83.84.8586.87.88.89.9091.92.93.94.9596.97.98.99.100

101.102.103.104.105106.107.108.109.110
111.112.113.114.115116.117.118.119.120
121.122.123.124.125
....
北01.北02.北03.北04.北05....
・・元はこちらが正当な天皇家だったようです






不明〜紀元前660年


紀元前660年〜507年
507年〜806年
806年〜1141年
1141年〜1412年

1412年〜1643年
1643年〜1846年
1846年〜2006年

1331年〜1371年
           
1. 代:  在位 〜  2.  伝承   3.御名・異称 4.略年譜 5.配偶者 6.御 父 7.御 母 8.皇子女 9.皇 居 10.陵 墓
 026代:     TOP

継体天皇
在位  507年 2月 4日〜
    531年 2月 7日

神代文字

 山窩文字(朝廷文字)でヲホド(ヲヲド)と読みます。

san_31
san_28

 父は神倭朝17代 履中天皇だそうです。
陵墓は北本市東間の浅間神社だそうです。富士山はフジ(=中国人)、嘘という意味です。浅間(せんげん)は宣言、宣化=中国です。
平成25年05月24日

 当時の朝廷は埼玉県鴻巣市にありました。
当時の朝廷では神代文字を使っていました。


下生出塚古墳群

 かっての朝廷跡と継体天皇の皇居跡です。

朝廷、皇居跡

継体天皇様


T-26.jpg(47133 byte)

 父は神倭朝17代 履中天皇だそうです。
陵墓は北本市東間の浅間神社だそうです。

 前世はジャイナ教の開祖、マハービーラです。継体天皇は、その後、覚鑁上人として日本で転生されました。

富士山はフジ(=中国人)、嘘という意味です。浅間(せんげん)は宣言、宣化=中国です。

 継体天皇も中国人にお怒りです。

2013-05-23-06.jpg(84442 byte)
 以下は多くが嘘です。↓

15代応神天皇の五世孫と言われる。 武烈天皇に後継がなかったため、時の実権を握っていた大伴金村らに推挙されて即位した。
しかし大和に入ることが出来ず、二十年に渡って大和周縁を転々とし、24代仁賢天皇の皇女で武烈天皇の妹にあたる手白香を娶って皇后とし大和入りした。

wakoku_01.jpg(18378 byte) 大和入りするとすぐに筑紫国造磐井が新羅と手を組んで反乱を起こし、その鎮定に苦したという。 「新」の字には注意と言う事である。

大伴金村が失脚したのは、勿論反対派がいたからである。
大きな力を持っていた者たちは磐井とも手を結んだのである。
それが悪かったのであろうと思う。
結果としては、この継体天皇以降に仏教が日本に根付いたので良かったのかとも思う。
               
 027代:     TOP

安閑天皇
在位  531年 2月 7日〜
    535年12月17日

 マガリノオイネヒロクニオシタケカナイミコト
朝廷文字で、以下のように現したそうです。

san_15(マガダ国、勾玉)
san_44( =栄光の吏)
san_31(オイネヒロクニオシタケカナイ)
san_35(スメラミコト)

安閑天皇

 朝廷で使用していた文字だそうです。
豪族たちのものは違います。秘密を守る為です。
庶民は文字を知りませんでした。

 これは安閑天皇が使っていた文字です。お地蔵さんのものです。

筑紫文字

 安閑天皇は、元々僧侶です。軍備は認めませんでした。
 実際は539年まで在位し、その後出家されました。
 埼玉県行田市の丸墓山の麓にあった西行寺で僧侶だったそうです。

 マガダ国は偉大な国で、お釈迦様、マハービーラはじめ、多くの方の前世があるそうです。
古代鴻巣の天皇も沢山縁があるそうです。
それで、あちこちから勾玉が出るのです。
安閑天皇は23歳で日本に来て皇太子となり、35歳で即位されたそうです。

 僧侶なので、子がいるわけはありません。常識です。

安閑天皇

 元古墳。

元古墳

安閑天皇

 埼玉県鴻巣市の生出塚(おいねづか)神社の御祭神


継体天皇の第一皇子で、宜化天皇の同母兄。老齢で即位し、仁賢天皇の娘、春日山田皇女を皇后に立てたが、後継を得ることなく、即位後二年で没した。
 各地に屯倉を設置し、皇室領の拡大を行ったとされる。
               
 028代:     TOP

宜化天皇←自称天皇、中國人の傀儡、偽の朝廷
在位  535年12月

    539年 2月10日
 諸悪の元  生出塚神社に祭られるオキネさん(安閑天皇様)によると、この天皇は困り者だったそうである。もちろん、弟ではなかったそうです。
実際は安閑天皇が531年から539年まで執務していたそうである。「宣化」と言う名も、化けるを宣言したと言う意味なのだそうである。

 この宣化の朝廷は関西にあったそうです。中国人なので当然です。

 平成25年05月17日更新

 宣化とは中国人だったそうです。自称天皇、自称朝廷を並立させ、日本の宗教界を乱したのだそうです。
この自称天皇の時、神社で拍手する作法を入れたのだそうです。
 その背後は、もちろんイタ公だそうです。
宣化と言うのは中国の町の名前でもある。
・・ヲホドさんも、あれが即位しては困ると思っていたそうです。。
もちろん、家族の写真にも居りません。。

平成21年08月26日〜平成25年04月28日
宣化天皇と武烈天皇

 ご覧のように、どちらも悪霊です。
宣化とは中国の町の名前です。

 安閑天皇様によると、宣化は中国の傀儡の天皇で、悪しき神道の習慣を入れたのです。
拝殿で手を打つのは誤りだそうです。

T-28

 墓の跡は、練馬の光が丘公園。

 以下は捏造部分。
継体天皇の第二皇子で、安閑天皇の同母弟。兄の安閑天皇が後継かないまま没したため、群臣たちに推挙されて即位した。 新羅の任那に対する侵攻が頻発したため、大伴金村に任那出兵を命じ、各地の屯倉から筑紫に穀物を送って集積した。 一説には異母弟の欽明天皇が同時期に皇位にあり、宣化天皇とその同母兄安閑天皇と並立していたのではないかとも言われている。

日本書紀では飢饉に備え筑紫に穀物を集めたと記されているが、これは明らかに嘘である。
何故そんなところに、飢饉のための穀物を供える必要があったのか?
 皆さんも日本書紀等の歴史上の嘘を良く見抜いていただきたい。
 日本書紀は東国を目の敵にしていたと言う。
景行天皇40年(西暦110頃)の野蛮な風俗が書かれていると言う。
「東国の人々は凶暴で、人を辱める事を平気でする。村や集落に長は無くおのおの境界を侵しあっては物を盗む。山には邪神がいる。野には鬼がいて多くの人々が苦しんでいる。 その中でも蝦夷は特に手ごわい。」
 以上のような記述があるそうである。まるで北朝鮮が他国を非難しているような記述である。
 天によると、日本書紀の真実は1割程度だそうです。後世の人を欺くために創ったのですから当然かもしれません。
 西の人間は牛を食う人間たちだったのである。牛は食ってはいけません。
2006年05月16日
               
 029代:     TOP

欽明天皇
在位  539年12月 5日〜
    571年 4月

在位期間32年

 安閑天皇の時から、朝廷の場所は、現在の北本市中丸になったそうです。関西では自称天皇の宣化が朝廷を開いていたそうです。
 東国、中丸の朝廷では欽明天皇から崇峻天皇まで、サンカ文字と呼ばれるものを使用したそうです。

サンカ文字
2005/04/29
連休の初日、昼寝をしていたところに霊が参りました。 天皇と判り、お付の神様(豊受神様)もおられました。
私の目には何処かの陵が見えました。
何処の方かと思ったら神倭朝の29代様でした。
29代様は異母兄の即位を認めず、別に朝廷を開いたのだそうです。 それは勿論母の問題で、二人の兄の母は仏蘭西人だったのだそうです。
それで事実上朝廷は2つあったのだそうです。
29代様の母は勿論日本人だったそうです。
百済の聖明王は29代様が呼ばれたのだそうです。
何しろ当時新羅は伊太利亜(ビザンチン帝国=東ローマ帝国)にほぼ征服されており、日本としても諸外国と連携を取る以外道が無かったそうです。
以後34代まで印度系の天皇ですが、元々天皇家の子孫は世界中にいるそうです。一部を除いて。
しかし、この仏教導入の動きが大化の改新を経て日本を律令国家へと導いたのは否めません。
 先日現れた聖徳太子の霊も、この東ローマ帝国の圧力は朝廷内で凄かったと言っている。

中丸朝廷跡 氷川神社

長福寺

欽明天皇

T-29

 以下は捏造部分が多いです。

継体天皇の第三皇子で、安閑・宜化天皇の異母弟。『日本書紀』によれば宣化天皇の没後に即位したことになっているが、『上宮聖徳法王帝説』などによれば、継体天皇の没年に即位したことになっており、安閑・宣化天皇と並立していたのではないかとの説もある。

2005/04/29の天皇の神霊のお話により、以上は事実だったようである。
それが下の図の「上津」と言うところの地なのだそうである。



 治世中、百済の聖明王によって仏教が伝来し、後々まで続く崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部・中臣氏(古来よりの朝廷の神事担当方)との権力闘争の発端となった。
 ※古来より朝廷の神事は忌部氏、中臣氏で交代で執り行っていた。物部氏は古代、大伴氏とともに大和政権の軍事をつかさどった伴造(とものみやつこ)系の有力氏族。大伴氏の衰退後大連(おおむらじ)として、大臣(おおおみ)の蘇我氏とともに政治の中枢を占めた。他国の神が入ってくると国が乱れると考えた様である。
 物部氏(もののべのうじ)はニギハヤヒミコトを祖先とし現在の天皇家(神武天皇よりの神倭朝)よりも前に地上(奈良地方)に存在していたと伝えられる氏族。元々は兵器の管理を主に行なっていたが、自然と大伴氏とならぶ武器を扱う氏族へと成長していった。連の姓(かばね)、八色の姓の改革の時に朝臣姓を賜る。
 
  対朝鮮政策では任那復興の約束をした百済の聖明王を支援したが、聖明王が新羅軍に破れて任那は滅亡
 以降、任那の復興が歴代天皇の課題となっていった。
               
 29-30代の間の天皇 多眼天皇(仮称)
 この方の3女が多米媛、田眼皇女と言われる方です。
多眼天皇は娘さんが3人だけだったそうです。

 この方も売国奴、蘇我馬子の手に殺されたそうです。
 実際は多眼天皇の治世は長く、28年以上だそうです。
敏達天皇、チヌ王の治世はなかったのだそうです。(更新平成28年5月3日)
 
               
 030代:     TOP

敏達(びたつ)天皇
在位  572年 4月 3日〜
    585年 8月15日

 即位していなかったそうです。
 (更新平成28年5月3日)

在位期間13年 (記録上)

敏達天皇は子は居なかったそうです。
したがって、以下の記述は誤りです。(平成26年4月1日)
(更新平成28年5月3日)


田眼皇女

その後4年ほどして、宝皇女が現在のフランスから来たのだそうです。(皇極天皇→斉明天皇)

 父のチヌ王とはクロヴィス2世の父、ダゴベルト1世です。
フランスでも成務天皇、出雲朝4代 淤美豆神(オミズヌ)をお祀りしていたそうです。

 以下は古い記事で、誤りがあります。
平成25年05月27日
 東国、中丸の朝廷では欽明天皇から崇峻天皇まで、サンカ文字と呼ばれるものを使用したそうです。

サンカ文字

敏達天皇略記
【別名】訳語田渟中倉太珠敷(おさだのぬなくらふとたましき)尊
【在位】敏達元年(572)4月3日〜敏達14年(585)8月15日
【皇居】百済大井宮
(くだらのおおいのみや、大阪府富田林市または奈良県北葛城郡広陵町百済)、
訳語田幸玉宮 (おさだのさきたまのみや、奈良県桜井市戒重 )

敏達天皇

皇居

T-30

さきたまのみや



 以下は古い記事で、誤りがあります。
平成25年05月27日

欽明天皇の第二皇子。兄の箭田珠勝大兄皇子の死によって皇太子となり、欽明天皇の没後、即位した。
 この欽明天皇の死に際して、新羅を討って任那を復興するべく託されたため、高句麗と初めて国交を開くなど、積極的に朝鮮諸国との交渉を行った。
 そのため2番目の男子を高句麗に派遣した様です。
 百済から贈られた仏像を蘇我馬子が祀ったところ、途端に疫病が流行したため、物部守屋らに命じて仏塔、仏像などを焼き払った。しかし、その直後に敏達天皇と物部守屋が疫病に罹り、間もなく敏達天皇自身が没してしまった。
※マホメット来日、皇祖皇太神宮で学んで帰る。
 ※皇祖皇大神宮では30代天皇は欣明天皇となっているようですが、本サイトでは一般的に敏達天皇としています。
 この原因は軍国化に走った明治政府が八幡様の内の一神であった15代の神功天皇を天皇では無かったとしてしまったからです。
 それまでは1500年以上に渡る長い間、神功皇后は15代、神功天皇だったのです。酷いことをしたものです。

【系図】欽明天皇と、宣化天皇の娘石姫(いしひめ)皇女との間に生まれた二男一女の中の次男 。
(兄は箭田珠勝大兄皇子(552年没)、妹は笠縫皇女)
【配偶者】 皇后・広姫(ひろひめ)、皇后・豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ、後の推古天皇) 、夫人・春日老女子(かすがのおみなご)、夫人・ 伊勢莵名子(いせのうなこ)
【皇子女】皇后・広姫との間に一男二女(押坂彦人大兄皇子、逆登皇女、莵道磯津貝皇女)、
皇后・豊御食炊屋姫(→推古天皇)との間に二男五女(男子は3人、女子七人)
(莵道貝鮹皇女、竹田皇子、小墾田皇女、ウ守皇女、尾張皇子、田眼皇女、桜井弓張皇女 )、夫人・春日老女君との間に三男一女(難波皇子、春日皇子、桑田皇女、大派皇子)、夫人・伊勢兎名子との間に二女(太姫皇女、糠手姫皇女)  
               
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 031代 : 用明天皇
在位  585年 9月 5日〜
    587年 4月 9日

在位期間1年7ヶ月

 
更新 平成25年05月17日

  東国、中丸の朝廷では欽明天皇から崇峻天皇まで、サンカ文字と呼ばれるものを使用したそうです。

用明天皇

サンカ文字

 古い記事は、管理人も内容を忘れています。
用明天皇は、真っ先に来てくれた天皇様です。まさか、こんなに近いところに皇居があったとは、昔は夢にも思っていなかったのです。

 管理人も、中国製の嘘の歴史に騙され、理解が遅れていました。
平成25年05月17日

2005/03/09 ある霊が来て言いました。蘇我氏は地中海の近くから来たのだと。
確かに日ユ道祖論と言うのがあります。ユダヤの祖先は日本の皇室だと竹内文書にもあります。
そして、日本の天皇家の男子にも割礼があります。永い月日を掛け日本に来たのは渡来人に日本が攻めらたれたからです。
神武天皇は九州から来ましたが、本質は中国人だったそうです。その後2代から9代までの天皇は治績すら残っていません。
そのため、本当の天皇家の血筋を復活させるため日本に蘇ったそうです。それで蘇我氏なのです。
裏切ったのは女だと言っていますが、これは皇極天皇だと思います。 皇極天皇は絶大な権力を振るった蘇我氏を鬱陶しく思ったようです。
そこに中臣氏が噛んだと言うのが一般的歴史です。
youmei1022.gif

明秋神社

神倭朝31代 用明天皇

用明天皇陵跡

神倭朝31代 用明天皇

欽明天皇の第四皇子で、蘇我氏を外戚に持つ初の天皇。
兄敏達天皇の死にともない、蘇我馬子の後押しで即位した。
異母妹の穴穂部皇女を皇后に立て、四人の男子をもうけたが、その中の一人が厩戸皇子(聖徳太子)である。
  ※聖徳太子はその名から解るようにキリシタンではなかったかと言われている。
すると、泰河勝はどこの人間か?
大西家とはどこにあったのか?
平安京の土地さえ提供したと言われる莫大な財力を築いた技術力の源はどこにあったのか?
日本史の謎である。
※管理人は秦氏はインドの出身と考えています。約1600年前です。
蘇我稲目が子に馬子と名づけたり、聖徳太子を厩戸皇子と呼んだのがその験である。時代的にあっている。
2千年前、ペルシャに興ったミトラ神への信仰もキリスト教に駆逐されているそうである。
それに、蘇我氏には神事を執り行った物部氏や中臣氏に対抗し権力を握るためには、神道に代わる宗教が必要だったと言う。
そのためには、表向きは景教より、東洋的な仏教が有利と考えたかもしれない。
しかし、お釈迦様もイエス様もマホメットも日本に来て古代神道を皇祖皇太神宮で学んでいるそうである。
それなら各宗教の本質は近いもののはずである。

・用明天皇は仏法を信じ、かつ神道を尊んだ信仰心の厚い人物だった。
・用明天皇は病気回復を願って仏教に帰依しようと群臣に相談した。蘇我馬子は賛成したが物部守屋や中臣勝海らは大反対した。
 用明天王は僅かな在位期間で崩御されてしまった。これは武力対立へと発展するもとになっていった。
 廃仏派の物部・中臣氏と崇仏派の蘇我氏との対立が激化し、一触即発の危機を迎えることになった。
※用明天皇(ようめいてんのう 在位:585年9月5日 - 587年4月9日)は、第31代天皇。欽明天皇の第四皇子。
母は蘇我稲目の娘の堅塩媛。別名は橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)と言い、これはウガヤ31代の女帝と同じである。大兄皇子、池辺皇子とも称する。
聖徳太子の父。
宮は池辺宮(古事記)、磐余池辺雙槻宮(日本書紀)などとされる。
大連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)は、物部守屋と蘇我馬子がそのまま引き継いだ。
前代の敏達天皇が亡くなると即位した。敏達天皇とは違い、用明天皇は蘇我稲目の孫と言う事もあり、崇仏派であり仏法を重んじた。
一方、危機感を持った廃仏派の筆頭である物部守屋は、欽明天皇の息子の一人である穴穂部皇子と通じていた。
しかしながら、用明天皇は在位二年あまりの587年4月9日(古事記では4月15日)に崩御した。廃仏派の物部守屋の一味が暗殺したと言う説もある。
磐余池上陵に葬られたが後に河内磯長陵(大阪府南河内郡太子町)に改葬された。(と言う説もある。)

陵の検証中
               
032代:     TOP

崇峻(すしゅん)天皇
在位  587年 8月 2日〜
    592年11月 3日
 東国、中丸の朝廷では欽明天皇から崇峻天皇まで、サンカ文字と呼ばれるものを使用したそうです。

サンカ文字

2005/08/04
後ろに諸天善神様が着ているのを感じました。
お尋ねしたところ32代様でした。
この方はエジプトから帰られてきたフリーメーソンだったそうです。
蘇我馬子と意見対立して殺されてしまいました。
その真相は権力の維持について歴史の扱いだったそうです。
蘇我馬子は自分の一族が日本を支配した時のための歴史を創る事を画策していました。
当時の絶対的外圧は「伊」で、その次が「英」だったのだそうです。
それで、草冠の蘇我だったのだそうです。
「伊」は勿論キリスト教を日本の国教にしたかった様です。蘇我氏は反対したわけです。
かっては日本の皇室が世界に人を派遣していました。
竹内文書の通りです。
ところが世が乱れ「伊」を初め、いろいろな国が日本にとって代わろうとしたのです。
伊は伊勢神宮を創始しました。
そして最高神の天照大神様は天皇でしたが「伊」の方だったのだそうです。
かって上古の時代は国境は無かったのです。
母親のイザナミも現在のアフガニスタンの方だったそうです。
そして豊受大神様は印度の方でした。
そのため、稲荷神様としても祭られ、お狐の皆様も快くお手伝いしているのです。
この方の時代に陵の新規造成は禁止したのだそうです。
そのため、記録上、7世紀以降は陵は全くと言って良いほど造られなくなりました。
そして陵にあった記録も全て葬られました。
巨大な力によって日本の記録は消えていたのです。
そして陵は全てが6世紀頃以降のものとされてしまいました。
今上天皇も立派なお鼻をしています。
多くの方は教員から、事実と違う事を教えられていたわけです。
多くの方は霊と交信できませんから、そんなことは嘘だと言うかもしれません。
しかし、私のところに来た天皇様は今まで何人いることか??
蘇我馬子から藤原鎌足、聖徳太子まで来たと言っても信じないと思います。
天照大神様も参りましたが、その顔は曇っていたのです。
私も最近やっと理由が解りました。
皆様も目からうろこが落ちたかと思います。

崇峻天皇

崇峻天皇

崇峻天皇陵

 都はこちらだったそうです。

崇峻天皇、都

 ここの都は、日本書紀の編集に着手した、44代元正天皇の時代に破壊されたのだそうです。
天武に付いた中国人どもが、朝廷内で暴れだしたのです。
 以下は古い記事で、誤りがあります。

 欽明天皇の第十二皇子。母は蘇我稲目の娘、小姉君で、敏達、用明、推古天皇の異母弟にあたる。
 用明天皇没後、蘇我馬子と物部守屋の対立は武力衝突にまで発展。討伐軍に加わって物部守屋を討ち、蘇我氏の後押しを得て即位。
 物部氏の没落によって欽明朝以来の崇仏廃仏論争に決着が付き法興寺(飛鳥寺)や四天王寺の造営に着手するなど、造寺事業を積極的に行った。
 やがて権勢を増した蘇我馬子と対立するようになり、馬子の命をうけた東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)によって殺害された。
587年,とうとう蘇我氏は物部氏など廃仏派の豪族たちと戦い,物部守屋をはじめとする有力豪族を滅ぼした。(丁未の変)
こうして,大和王権における蘇我氏の権力が確立した。
この戦いには蘇我氏の血をひく14歳の廐戸皇子(うまやどのおうじ:後の聖徳太子)も蘇我氏側について戦っている。

@蘇我稲目の娘で馬子と姉妹関係になる堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)が欽明天皇の夫人となる。
A堅塩媛(きたしひめ)の子の額田部(ぬかたべ)皇女は敏達天皇の后となる。額田部皇女は後の推古天皇。
B堅塩媛の子の大兄(おおえ)皇子が用明天皇となる。
C用明天皇は小姉君の子の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女を后とする。その子が厩戸皇子(聖徳太子)
D用明天皇は稲目の子の石寸名(いしきな)を夫人とした。
E小姉君の子の泊瀬部(はつせべ)皇子は崇峻天皇で馬子の娘の河上娘を妃とした。
F聖徳太子は馬子の娘の刀自古郎女(とじこのいらつめ)を夫人とした。
G舒明天皇は馬子の娘の法提郎媛(ほほてのいらつめ)を夫人とした。

 物部守屋は蘇我氏の寺を襲い、仏像は川に投げ入れ、寺は焼くということをしてしまった。そして3人の尼を鞭で打った。
  しかし、それ以後疫病が流行し用明天皇が崩御した。これにより皇后や皇子を支持基盤にもつ蘇我氏が有利になり、また天皇が生前、「仏教を敬うように」といった詔があったこともあり、皇后(後の推古天皇)の命により蘇我氏及び連合軍は物部氏に攻め込んだ。当初、物部氏は有利であったが守屋の戦死により降伏した。
  蘇我軍は戦いに強い物部軍の前に三度敗走したそうである。追いこまれた聖徳太子はこれに勝ったら寺を建立すると祈願して、その後出来たのが四天王寺だそうである。
  ある時、物部守屋は木の上から矢を放っていたが,蘇我軍の迹見赤檮(とみのいちい)から放たれた矢が命中,守屋は木から落ちた。すかさず秦河勝(はたのかわかつ)が守屋の首を切り落とした。そして,その首を池で洗い本陣に持ち帰った。
  これで、崇仏派の連合軍は勝利したわけである。
 
     

               
 033代:      TOP

推古天皇
在位  592年12月 8日〜
    628年 3月 7日

在位期間36年
物部連兄麻呂(もののべのむらじえまろ)

「聖徳太子伝暦」に、 物部連兄麻呂という人物が、武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)に、癸巳年(633年)任じられ、のちに小仁の位を賜ったことが記されています。
小仁とは大徳、小徳、大仁に次ぐ冠位です。
大変な仕事をしたのです。
中臣鎌足は蘇我入鹿を討って大職冠と言うのを頂きました。 そして、蘇我氏が用意していた日本の歴史は蘇我蝦夷と共に火中に消えたのだそうです。

この兄麻呂が太子亡き後埼玉に赴任させられたのはどんな理由か解ったかと思います。
それほどの方の古墳でも中心から離れ泥まで沼の埋め立てに使われてしまったのです。
埼玉古墳郡の大きな陵は誰のものだったか考えても想像がつくかと思います。

兄麻呂は聖徳太子の舎人(とねり)として活躍した人物で、仏教にひかれて身を慎み、後に在俗の信者となって太子に仕えました。
この八幡山古墳が兄麻呂の墓であるともいわれています。古墳の築造年代が兄麻呂に合うこと、そして出土品の中に仏教的な銅鋺が見つかっている事などが根拠になっています。
埼玉と聖徳太子のつながりを示す重要な八幡山古墳です。
下の写真は、八幡山古墳から少し北に行ったところの地蔵山古墳です。
やはり烏帽子を被った人物の絵が描かれているそうです。
一緒に百済から来た仲間だそうです。フリーメーソンです。八幡山古墳の見事な石組みでわかると思います。
jizouduka.jpg(15852 byte)フリーメーソンとは国境なき石工のことです。かっての特権階級です。勿論日本発のです。。
聖徳太子は巨大な外圧により日本の神代の歴史を葬る事を約束させられたのです。そのためには埼玉の古墳は邪魔だったのです。

そのため現在でも埼玉古墳の全ての歴史が5世紀末以降のものとされています。
それにしては3千年以上前のものといわれる古代蓮が復活したのはおかしいのです。
633年と言うのは既に太子が亡くなり十年以上経った舒明天皇の治世でした。
埼玉古墳から蓮が消えたのは印度が巨大な外圧から、日本に送った蓮を処分して欲しいと懇願した事もあったからだそうです。

当時の超大国は全ての国を思うままにしたのです。もちろん、継体天皇以降日本に根付きかけた仏教は邪魔だったのです。
それで古代印度と日本の友好の徴である印度蓮は日本の歴史を葬るために邪魔だったのだそうです。
聖徳太子には蓮の花を抜く事は出来なかったそうです。それで舒明天皇の治世でこれが行われたのです。
名は体を現します。「舒明」と言う漢風の贈り名はこの事だった様です。
蘇我入鹿を唆し、法隆寺に火をつけたのはどこの手のものだったのか想像がつくでしょうか?

・蘇我氏の歴史
 蘇我氏の祖は蘇我稲目が、最初に歴史には登場している。
・日本の歴史でも最初に、五行を導入した先人として紹介している。
 それで、その親は誰であったかと言うと名前しか判らないが、蘇我高麗と言う方である。
名が体を現しているのかもしれない。名からして渡来人である。
 武内宿禰の子孫と言う者は沢山いるが、これは眉唾である。。
 一般的には次の様である。

 武内宿禰−蘇我石川宿禰−満智(まち)−韓子(からこ)−高麗(こま)
−稲目(いなめ)−馬子(うまこ) →+蝦夷(えみし)−入鹿(いるか)である。

2006/02/16
推古天皇、聖徳太子

推古天皇

推古天皇

推古天皇

聖徳太子



聖徳太子

 以下は古い記事で、誤りがあります。
平成25年05月27日

 日本書紀のものは、多くが捏造記事と思ってください。

欽明天皇の第三皇女。異母兄敏達天皇の皇后で、蘇我馬子の姪にあたる。
歴代天皇の中で最初の女帝。
 聖徳太子を摂政とし、冠位十二階、十七条の憲法の制定 など統治体制の強化につとめる一方、対外的にも遣隋使の派遣や、百済、高句麗との通交など、積極的な外交を行った。

また斑鳩寺(後の法隆寺)の造営、『国記』『天皇記』の編纂を命じるなど、文化事業にも力を入れていた。

以下は聖徳太子の御紹介
574(敏達3)年  聖徳太子、用明天皇の皇子として生誕(厩戸皇子)
586(用明元)年  用明天皇、法隆寺と薬師仏の造立を発願
587(崇峻元)年  蘇我馬子が物部守屋を討滅。厩戸皇子、守屋討伐軍に参加し、四天王寺を発願
※物部氏は強かったのである。奇跡的勝利だったようである。
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『日本書紀』−−「(崇峻元年)・・・乃ち白膠木をきり取りて、疾く四天王の像に作りて、頂髪に置きて、誓を発てて言はく、「今若し我をして敵に勝たしめたまはば、必ず護世四王の奉為に、寺塔を起立てむ」とのたまふ。」
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589年       隋、中国を統一
593(推古元)年  厩戸皇子、難波の荒陵(大阪市天王寺区)に四天王寺を造る
※神仏への約束を守ったわけである。
593(推古元)年  厩戸皇子が立太子して摂政となる
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『日本書紀』−−「(推古元年)・・・厩戸豊聡耳皇子を立てて、皇太子とす。仍りて録摂政らしむ。萬機を以て悉に委ぬ。」
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595(推古3)年  太子の師、高句麗僧慧慈が渡来
601(推古9)年  聖徳太子、斑鳩宮を建立
602(推古10)年 聖徳太子の同母弟来目皇子を撃新羅将軍に任命
603(推古11)年 聖徳太子の異母兄当麻皇子を征新羅将軍に任命
603(推古11)年 秦河勝、蜂岡寺(広隆寺)を造る
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『日本書紀』−−「(推古十一年)・・・皇太子、諸の大夫に謂りて日はく、「我、尊き仏像有てり。誰か是の像を得て恭拝らむ」とのたまふ。時に、秦造河勝進みて日く、「臣、拝みまつらむ」といふ。便でに仏像を受く。因りて蜂岡寺を造る。」
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603(推古11)年 聖徳太子、冠位十二階を制定
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『日本書紀』−−「(推古十一年)・・・始めて冠位を行ふ。大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大議・小議・大智・小智、并て十二階。並びに当れる色のきぬを以て縫へり。」 604(推古12)年 聖徳太子、憲法十七条を制定
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『日本書紀』−−「(推古十二年)・・・皇太子、親ら肇めて憲法十七条作りたまふ。一つに日く、和なるを以て貴しとし、忤ふること無きを宗と施よ。・・・」
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605(推古13)年 聖徳太子、斑鳩宮に移る。(31歳)
606(推古14)年 聖徳太子、天皇に勝鬘経を講義

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『日本書紀』−−「(推古十四年)・・・天皇、皇太子を請せて、勝鬘経を講かしめたまふ。三日に説き竟へつ。是歳、皇太子、亦法華経を岡本宮に請く。天皇、大きに喜びて、播磨国の水田百町を皇太子に施りたまふ。因りて斑鳩寺に納れたまふ。」

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607(推古15)年 法隆寺創建、用明天皇のため金堂薬師如来座像を造願
607(推古15)年 遣隋使に任命された小野妹子、国書を煬帝に奉呈、国書には「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云々」と書かれていた。

611(推古19)年 聖徳太子、「勝鬘経義疏(しようまんきょうぎしょ)」を撰す
勝鬘経 (しょうまんぎょう)
 王女勝鬘夫人の説法を釈尊が承認するという経典で在家の女性の説法として著名である。
原題はシュリーマーラーデービー・シンハナーダ・スートラで梵語原点は失はれている。
真実の教えとして人間はすべて平等に成仏する事が出来ると説く「一乗思想」を唱え、また一切の衆生は煩悩にまとわれているが、本性は清浄無垢で如来の心を備えていと言う「佛性」即ち「如来蔵」説を説いている。 また身・命・財を捨てることに仏の教えがあると言う。
613(推古21)年 聖徳太子、「維摩経義疏(ゆいまきょうぎしょ)」を撰す
615(推古23)年 聖徳太子、「法華経義疏(ほけきょうぎしょ)」を撰す
618(推古26)年 隋の煬帝が殺され、唐が興る
620(推古28)年 聖徳太子、馬子と議り、天皇記、国記を記録
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『日本書紀』−−「(推古二十八年)・・・皇太子・嶋大臣、共に議りて、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部并て公民等の本記を録す。」
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622(推古30)年 橘大娘女、太子のために天寿国曼陀羅繍帳を造る
622(推古30)年 聖徳太子、斑鳩宮で逝去(享年48歳)
623(推古31)年 太子のために金堂釈迦三尊像を造願
623(推古31)年 蘇我馬子、征新羅軍を派遣
626(推古34)年 蘇我馬子死、子蝦夷大臣になる
628(推古36)年 推古天皇、逝去
643(皇極2)年  蘇我入鹿により、山背大兄一族滅亡
645         蘇我氏滅ぶ(蘇我石川麿除く)、ここから大化
            歴史が化けてしまった時代である。
670(天智9)年  法隆寺炎上
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『日本書紀』−−「(天智九年)・・・夜半之後に、法隆寺に災けり。一屋も余ること無し。大雨ふり、雷震る。」
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708(和銅元年)  法隆寺再建
               
 034代:     TOP

舒明(じょめい)天皇
在位  629年 1月 4日〜
    641年10月 9日

在位期間12年
舒明天皇

舒明天皇陵



 以下は古い記事で、誤りがあります。
平成25年05月27日

押坂彦人大兄皇子の子で、敏達天皇の孫にあたる。
推古天皇没後、聖徳太子の長子で、用明天皇の孫にあたる山背大兄王と皇位を争い、蘇我蝦夷の支持を受け即位した。
 隋に代わって中国を統一した唐に、第一回遣唐使を派遣。百済、新羅、高句麗との関係も良好で、活発な文化交流がなされた、きわめて安穏な時代だった。
               
 035代:     TOP

皇極天皇(→斉明天皇)
在位  642年 1月15日〜
    645年 6月14日

皇極天皇
T-35-37.jpg(262251 byte)

おはりだ宮

 以下は古い記事で、誤りがあります。
平成25年05月27日


父の茅渟王(ちぬおう)は敏達天皇の孫にあたる人物。
※茅渟とは大阪和泉の古名。神武東征で兄の五瀬命が矢傷を受けた手を洗った地沼海の説話がある。チヌ宮、チヌの県。大阪では黒鯛もチヌという。茅渟王はいかにも高句麗系の名前の様だが、その通りのようである。 父が敏達天皇の次男だったそうである。 欣明天皇の時任那(百済)が新羅に滅ぼされ、高句麗との関係を良くするため高句麗に派遣されたそうである。
その高句麗で乱に巻き込まれインドに逃げたのだそうである。
インドで仏教を勉強し、高句麗で王に祭られた様である。そして58の時日本に帰って来たそうである。


大野池(王の池)の西に住んでいたそうである。
このような歩みが帰化である。単なる渡来ではない。
皇極天皇は舒明天皇の皇后となり、天皇没後、蘇我蝦夷(そがえみし)の支持を受け即位した。
実子の中大兄皇子が、中臣鎌足らと謀って蘇我氏を滅ぼしたため、弟の孝徳天皇に一旦譲位したが、孝徳天皇が没すると重祚して斉明天皇となった。
 唐・新羅の連合軍が百済を攻略し、百済支援のため兵を率いて筑紫に向かったが、そこで急逝した。

中臣氏は、
神八井耳命(カンヤイミミノミコト)を祖とする多臣系中臣氏(神と人との中を取り持つ忌人として朝廷の祭祀の役職をなす)
天児屋根命(アメノコヤネノミコト)を祖とする中臣部・卜部(天神寿詞という中臣の下で卜占をしていた)
の二系統に分けられるとされている。
中臣鎌足は鹿島の出身と言われ多臣系中臣氏とされている。皇室祭祀は太古より忌部氏(古語拾遺 忌部弘成)と中臣氏で行っていた。
それが蘇我氏を討った功により片方の中臣が藤原と成り、忌部氏を権力により皇室祭祀より疎外してしまった。
それが後の世の乱れに繋がった。
正しい祭祀が行われなくなってしまったとの事である。
後に天皇家は大嘗祭(天皇一世一代の祭り)どころか亡き天皇葬祭の費用にさえ窮する時代がやってくるのである。

               
 036代:     TOP

孝徳天皇
在位  645年 6月14日〜
    654年10月10日
孝徳天皇

 墓は宣化の墓同様、光が丘公園  以下は古い記事で、誤りがあります。
平成25年05月27日

皇極(斉明)天皇の同母弟。皇后間人は中大兄皇子(後の天智天皇)の同母妹。
 中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我氏を滅ぼした大化改新により、皇極天皇から譲位され、即位した。
 年号を大化と改め、飛鳥から難波に遷都。
    ※645年の中大兄皇子(→天智天皇)、中臣鎌足(→藤原鎌足)らのクーデター(乙巳の変)によって、入鹿が暗殺され、蝦夷が翌日、自宅に火をつけ自殺するとその勢力は大幅にそがれた。
 しかしながら、この政変は蘇我氏全体の滅亡を意味するものではなく、このクーデターには、入鹿のいとこに当たる蘇我倉山田石川麻呂も中大兄皇子の協力者として関わっており、石川麻呂はこの後右大臣に任じられている。石川麻呂は649年に冤罪で処刑されるが、その弟、蘇我赤兄は天智天皇の時代に左大臣に任じられており、蘇我氏は一定の地位を保持している。
 既に述べている様に、中東から来て蘇我を名乗った部族は2つあったと言うことである。
 官人の増加にともなって推古朝に制定された冠位十二階を七色十三階、二年後に十九階とした。
 晩年は皇太子に立った中大兄皇子らと対立し、中大兄らが飛鳥に戻った後、難波で孤独のうちに崩じた。
               
 037代:     TOP

(皇極天皇→)斉明天皇
在位  655年 1月 3日〜
    661年 7月24日

出雲朝の淤美豆神(オミズヌ)、成務天皇を祀っていたそうです。

 久伊豆神社の御祭神、大巳貴命です。

成務天皇

宮殿神社
(皇極天皇→)斉明天皇

(皇極天皇→)斉明天皇

斉明天皇陵

父の茅渟王(ちぬおう)は敏達天皇の孫にあたる人物。
 舒明天皇の皇后となり、天皇没後、蘇我蝦夷の支持を受け、皇極天皇として即位した。
 実子の中大兄皇子が、中臣鎌足らと謀って蘇我氏を滅ぼしたため、弟の孝徳天皇に一旦譲位したが、孝徳天皇が没すると重祚して斉明天皇となった。


・以下は古い記事で、虚偽、誤りが多いです。平成25年06月28日
 唐・新羅の連合軍が百済を攻略し、百済支援のため兵を率いて筑紫に向かったが、そこで急逝した。(中国人による虚偽記載)

斉明天皇の墓
asakura 蘇我入鹿を討った首謀者は皇極天皇であるとNHKで放送していた。
その根拠として、皇極天皇は誰も罰しなかったからだという。
確かに、天皇の前の刃傷沙汰で死者が出たのに誰も罰しないと言うのはおかしい。
中臣氏と皇極天皇が組んだのは、神道を守るためだったと考えられる。
正しい宗教無くして国は収まらないということであろう。
邪宗が多くの国民の心を支配した時、国は滅びると言うことである。
               
 038代:      TOP

天智(てんじ)天皇
在位  661年 7月24日〜
    671年12月 3日

在位10年
天智天皇

天智天皇

 朝廷は、ここにあったそうです。
埼玉県です。

埼玉県北本市中丸の氷川神社

 昔書いた記事は、皆嘘のようです。
・・そもそも、日本の正史と言われた日本書紀が中国製と知リませんでした。

 その為、これは致し方ありませんでした。

もっと知りたい方は、心身を浄め、こちらで天智天皇の写真にお尋ねしてみてください。

舒明天皇の皇子で、母は皇極(斉明)天皇。
蘇我入鹿らの専横に憤慨し、中臣鎌足らと謀って蘇我氏を滅ぼした後、叔父を天皇(孝徳)に立てて自らは皇太子となった。
 孝徳天皇没後も皇位に就かずに母皇極天皇を重祚(斉明)させ、孝徳天皇の遺児有間皇子を謀反のかどで処刑するなど、長らく皇太子のまま実権を握っていた。
 緊迫する朝鮮半島情勢に対応するため、斉明天皇らと兵を率いて筑紫に入るが、そこで斉明天皇が病で急逝。唐・新羅連合軍との白村江の戦いで大敗を喫した後、大津へ遷都してそこで即位した。
wakoku_01.jpg(18378 byte)chikushi_01.jpg(30517 byte)
 同母弟で皇位継承の最有力候補だった大海人皇子(後の天武天皇)は、次々と皇位継承者を謀殺してきた天智天皇を怖れ、自ら吉野に出家。長子の大友皇子(後の弘文天皇)を後継に擁立すると、間もなく天智天皇は崩じた。
               
 039代:     TOP

弘文天皇
在位  671年12月 5日〜
    672年 7月23日

サンカ文字

 この当時は、木簡に山窩文字で書類を書いていたそうです。

木簡に山窩文字

漢字は、47代 淳仁天皇の時から使い出したそうです。

 サンカ文字も、この時まで使用したそうです。
この時、淳仁天皇が弓削道鏡問題で孝謙上皇に淡路島に幽閉され、そのため解雇された役人がサンカに成ったのだそうです。

弘文天皇  これが弘文天皇の本当の名前だそうです。「ヲホトモ」です。ヲホドさん、継体天皇とのご縁だそうです。
 御代は神倭朝の31代だったのだそうです。

 神倭朝は3代の安寧天皇、お釈迦様から始まったのだそうです。
 天武以降、宣化はじめ、不要なものが付け足されたそうです。
弘文天皇

弘文天皇

 弘文天皇陵は現在の飯能市川崎です。
弘文天皇の時代はサンカ文字を使っていたのです。弘文天皇も漢字など知らなかったそうです。

弘文天皇陵

 近江の朝廷とは、多摩川是政の朝廷

是政

  弘文天皇と従者が入滅した地。

七所神社

 天智天皇の第一皇子。
 父帝によって後継に選ばれたものの、 母が伊賀の采女であったために貴族らの支持を得られないまま近江朝廷の主となった。

この天皇は軍国化を推進した明治政府が追号した。在位僅か一年足らずである。皆様はどう思われますか。
側室までの正式な母なら、当時も貴族らにも認められたと思います。
 うねべ 【采女】「うねめ」に同じ。 「時持が妻(め)は、朱雀院(すざくゐん)の御時、―をなむし侍りし」〈宇津保・楼上下〉
※うねめ 【采女】
宮中の女官の一。天皇・皇后の側近に仕え、日常の雑事に従った者。律令制以前からあったとみられるが、律令制では諸国の郡司一族の子女のうちから容姿端麗な者を出仕させて、宮内省采女司(うねめのつかさ)が管理した。名目的には江戸時代まで存続した。うねべ

  しかし、父帝の同母弟で、叔父にあたる大海人皇子(後の天武天皇)が決起して壬申の乱が勃発。弘文天皇(←大友皇子)は自殺に追い込まれた。
 立太子・即位に関しては不詳で、史料により扱いが異なっているが、江戸時代の徳川光圀の著した『大日本史』の説が採用されて、明治になって追諡された。
               
 040代:      TOP

天武天皇
在位  673年 2月27日〜
    686年 9月 9日
◆ 「真人」姓
天武天皇13(684)年10月1日下賜。
守山公・路公・高橋公・三国公・当麻公・茨城公・丹比公
猪名公・坂田公・羽田公・息長公・酒人公・山路公
◆ 「朝臣」姓
天武天皇13(684)年11月1日下賜。
「臣」姓を中心とした構成で皇別出身が多いのが特徴。
大三輪君・大春日臣・阿倍臣・巨勢臣・膳臣・紀臣・波多臣・物部臣 平群臣・雀部臣・中臣連・大宅臣・粟田臣・石川臣・桜井臣・采女臣 田中臣・小墾田臣・穂積臣・山背臣・鴨君・小野臣・川辺臣・檪市臣 柿本臣・軽部臣・若桜部臣・岸田臣・高向臣・宍人臣・来目臣・犬上君 上毛野君・角臣・星川臣・多臣・胸方君・車持君・綾君・下道臣・伊賀臣 阿閉臣・林臣・波弥臣・下毛野君・佐味君・道守臣・大野君・坂本臣 池田君・玉手臣・笠臣
◆ 「宿禰」姓
天武天皇13(684)年12月2日下賜。
「連」姓が中心で神別を出自とするものが多い。
大伴連・佐伯連・阿曇連・忌部連・尾張連・倉連・中臣酒人連・土師連 掃部連・境部連・桜井田部連・伊福部連・巫部連・忍壁連・草壁連 三宅連・児部連・手繦丹比連・靫丹比連・漆部連・大湯人連・若湯人連 弓削連・神服部連・額田部連・津守連・県犬養連・稚犬養連・玉祖連 新田部連・倭文連・氷連・凡海連・山部連・矢集連・狭井連・爪工連 阿刀連・茨田連・田目連・少子部連・菟道連・小治田連・猪使連・海犬養連 間人連・春米連・美濃矢集連・諸会連・布留連
◆ 「忌寸」姓
天武天皇14(685)年6月20日下賜。
「連」姓の以前は「直」姓だったものが多い構成となっている。
大倭連・葛城連・凡川内連・山背連・難波連・紀酒人連・倭漢連・河内漢連 秦連・大隈直・書連
天武天皇

天武天皇陵跡

舒明天皇の皇子で、母は皇極(斉明)天皇。天智天皇の同母弟にあたる。
 皇太弟に選ばれていたが、天智天皇が実子大友皇子(→弘文天皇)を寵愛するようになり、次第に政権から疎外されていった。
 天智天皇の病臥の床で皇位を託されたものの、次々と皇位継承者を謀殺してきた天智天皇を怖れてこれを固辞。
 出家して吉野に隠遁していたが、天智天皇没後、後継となった大友皇子(弘文天皇)が吉野を急襲する準備をしているとの情報を得て決起。大友皇子を討って(壬申の乱)即位した。
 この時藤原氏は大友皇子側についたため、勢力を弱める。忌部氏は大海人皇子側についたそうである。
 大臣を廃して皇親政治をとり、律令・史書の編纂を命じ、八色の姓・新冠位の制定、諸国の境界の確定など、中央集権国家体制を固めていった。
 当時の帝紀、旧辞(本辞)の誤りを正すためを古事記を企画。稗田阿礼に勅語したが未完に終わる。
その後、古事記は太安万侶が712年に撰録。日本最古の歴史書と言われた。
ひえだのあら向かって左、つまり右手に稗田阿礼の承認、花押が書いてある。
これは、稗田阿礼が太安万侶より偉かった事を証明している。
この文書は伊勢神宮に保管されているそうである。
私は稗田阿礼を諸天善神様として祭っている。
もちろん禾の木の神様、日本の正一位、稲荷神様の内としている。
当然印度から来られたそうである。→日枝神社

何故この時、天武天皇は藤原氏を処分しなかったのか?
壬申の乱に敗れた弘文天皇は自殺し、多くの重臣は処分されたと言う。
多くの方が謎だと思うが、「英」の外圧問題で処分できなかったのだそうである。
そのため720年には藤原不比等による、藤原氏の為の日本書紀が完成してしまう。

大海皇子(天武天皇)が官軍に勝利できたのは、伊勢神宮の氏子たち(=伊)、さらに三関を越えたところの、東国尾張のの海部氏を味方につけることに成功したからである。
 かっても東国は巨大だったのである。 いつの間にか、歴史上は関西大和が日本のはじまりの様に記されてしまったのである。現実にはさいたま市の調神社は神倭朝第9代の開花天皇の時に、既に歴史上もあったのである。 埼玉古墳群も見ていただきたい。私が日本の歴史に手をつけたのは、ここから三柱の神様が来てからである。
  そして壬申の乱における官軍は英のDNAだったわけである。
大海皇子(天武天皇)が関係した土地で犬(→英)を飼うと災いが起こると言うのは、この霊脈のせいで、本当である。
 
               
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 041代 : 持統天皇
 在位  686年 9月 9日〜
     697年 8月 1日

2006/02/09

 太郎小山稲荷神社の社主(稲荷狐)の案内で、こちらの方が参られた。
この世での心残りは、子や孫が若くして亡くなってしまった事だったそうである。
 人として、まことに当たり前の思いだったと思う。
悪かったのは伊のDNAの役人だったそうである。
 天武天皇は英のDNAだったと言う。壬申の乱の後の処理の仕方でも感じていた。
 租庸調など毟り取る事を考えたのは役人で、天皇は今のように象徴に近かったと言う。

藤原京で起こった白鳳文化と言うのは、文字通り、白い鳳(おおとり)でこれは英(白人)=藤原氏のつながりを示す。
この時代の象徴「鳥」はtorijin=渡来人の事である。
ヤタカラス、飛鳥、白鳳と鳥が多く出てくるのは、大和とは渡来人が連合した政権だったからである。
そして、出雲はじめ多くの国、政権は滅ぼされ、あるいは大和と融和したのである。
日本の中心線は鹿島から埼玉(さきたま)諏訪と成っている。
アメリカが太平洋戦争で爆撃したのも、この他である。
軍需工場があったのは中国人子孫のいたところが多いのかもしれない。
この近辺では熊谷や古代笠原(鴻巣)と戦争した太田がそうであり、考えとあっている。
鴻巣とは古代の国府の州(こうのす)だったそうである。どこかから鳥が来たようである。
持統天皇皇居跡
T-41-2013-05-27-44持統天皇
 持統天皇陵は丸印の中。

持統天皇陵
持統天皇陵

 10年で消えたという藤原京は、こちらだったそうです。

藤原京

天智天皇の第二皇女で、弘文、元明天皇の異母姉。大海人皇子(天武天皇)の妃となり、天武天皇即位後、皇后となった。
 天武没後、称制をとって子の草壁皇子をすぐに即位させず、継子の大津皇子を謀反のかどで自殺に追い込み、草壁即位の安全を図った。
 しかし二年三ヶ月の長きに渡った天武の葬儀が終わると間もなく寵愛していた草壁皇子が没してしまい、草壁皇子の遺児で孫にあたる軽皇子(後の文武天皇)が成長するまでの中継ぎとして自ら即位した。
 天武天皇の遺業を受け継ぎ、飛鳥浄御原令を施行するなど、大化改新以来の律令国家建設は持統天皇の御代にほぼ完成した。
 草壁の遺児軽皇子が成長すると譲位し、太上天皇として文武天皇を支えた。
 
※だいじょう‐てんのう 【太上天皇】
天皇の譲位後の尊称。太上皇。上皇。たいじょうてんのう。だじょうてんのう。
略して上皇。
 藤原京に遷都。
※ふじわらきょう ふぢはらきやう 【藤原京】
飛鳥(あすか)時代、持統・文武・元明天皇の都(694-710)。奈良県橿原(かしはら)市高殿を中心とする、大和三山に囲まれた地域にある。飛鳥浄御原(きよみはら)から遷都、元明天皇の平城京遷都まで16年間続いた。中国式の条坊制を採用した日本最初の都城とされる。大極殿(だいごくでん)・朝堂院・官衙(かんが)などの遺跡が発掘されている。
藤原京(ふじわらきょう)は、持統天皇八年、694年(持統4)に完成し、条坊制(じょうぼうせい)を布いた日本で最初の本格的な中国風都城であった。
奈良盆地には、7世紀初め頃から上・中・下ツ道が造られていたが、それを基準にして藤原京が造営された。
大官大寺(だいかんだいじ、高市大寺)や薬師寺らが造営されていた。
この都で華咲いたのが、おおらかな白鳳文化(はくほうぶんか)であった。白鳳文化は、天皇や貴族中心の文化でもあった。
694年に飛鳥から遷都され、710年(和銅3)に平城京に遷都されるまでの16年間、日本の首都だった。
               
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文武(もんむ)天皇
在位  697年 8月 1日〜
    707年 6月15日
文武天皇
T-42-2013-05-27-43文武天皇

文武天皇陵跡

草壁皇子の子で天武天皇、持統天皇の孫にあたる。母は後の元明天皇となる阿閇皇女。
 持統天皇に譲位され十四歳にして即位したが、反対勢力が少なくなかったため、持統が天皇と同等の太上天皇として共治体制をとった。
 病弱だったこともあり、持統太上天皇没後、母の阿閇皇女に譲位の意志を示し、二十五歳の若さで没した。
 大宝律令。 租庸調は中国を模した税制である。祖は米です。農民の収穫の3%だったそうです。調は繊維製品、加工食品、特産品などを一定額を現物で納付、庸は初めは仕丁の衣食の戸数割、後に人頭税と成った。 
               
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元明天皇
在位  707年 7月17日〜
    715年 9月 2日

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見てお分かりと思うが、幾つかの言語で文書が書かれている。最初の文字は梵字(サンスクリット)かアラビア語に近いものであろうか?
その後に神代文字があり、最後に漢字で署名されている。当時の巨大な伊の外圧は漢字を日本の標準文字にしようとしたのである。誰が漢字を日本に持ち込み、普及させたか、歴史を操ったか?
少し見えたかと思います。

 古事記も朝廷文字であった山窩文字で木簡に書かれていたのです。

木簡

 竹内文書によると神代文字と言うものさえ400種類はあるのだという。それはもちろん地域、時代により文字を変え秘密を守るためである。
アメリカのドル紙幣だって少なくても偽造されたものが4千種類以上あるのだという。もちろん北朝鮮は有名であるが、ほかの国だって作っているかもしれない。
元明天皇
T-43-元明天皇

元明天皇陵跡

天智天皇の第四皇女で、先帝文武天皇の母。
 文武天皇が二十五歳の若さで没すると、持統帝にならい、文武の子で自らの孫にあたる首皇子(後の聖武天皇)に皇位を継承するべく、中継ぎとして即位した。
 首皇子が当時最大の実力者であった藤原不比等の孫にあたることから、不比等の意志が強く働いたと考えられている。
 治世中、和同開珎の発行や、平城京への遷都、『古事記』の撰上、『風土記』の編纂などが行われた。
※古事記上巻は天地開闢からウガヤフキアエズノミコト、中間は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの時代の事が書いてある。
当初、天武天皇が稗田阿礼(ひえだあれ)に勅語してして帝紀や先代旧事の誤りや乱れ(都合の悪いところ)を正すべく、誦習させたが未完に終わる。
稗田阿礼はすごく優秀な人間で、一読した書物を完璧に覚えたそうである。なぜ、当初は撰禄に失敗したのか?
一連の事実で撰禄し切れなかったというのが事実であると考える。
本当の天皇家の子孫と言う方は宇宙から来たと言っている。
天孫降臨が事実だったのだそうである。
私のところに来る上古の天皇だった方も太陽系霊界の外にいる方が多い。
もちろん地球にいたときは天の浮舟に乗っていたという。
心有る頭の良い方なら嘘は書けない。
稗田阿礼は女性という話もある。生年没年も不明。
そして、元明天皇は太安万侶に稗田阿礼の口誦を撰録させ、古事記を完成した事になっている。

 風土記(ふどき)とは713年元明(げんめい)天皇の詔をうけ諸国が作成した地誌の総称。郡郷の地名の由来・地形・産物・古伝説などを調査し中央政府に報告。大半は現存しないが,天平5年(733年)2月30日の日付のある《出雲国風土記》が完全に現存。常陸(ひたち)・播磨(はりま)・豊後(ぶんご)・肥前(ひぜん)のものが部分的に残る。
 出雲では近年、巨大な出雲大社の跡が見つかった。遺跡も大和の10倍くらいはあるのではないかと言われているが、大和を国家の歴史の最初に定義しているので、現状では学会はこれを認めないようである。
これを書いていたら「ヒエタアラ」と言う女性の霊がやって来た。
アレではなくアラが本当なのだと言う。そうすると、私は周りにいた者は中国人だと思った。
中国人は「ら」が苦手なのである。 アラさんに尋ねたら太安万侶は地中海から来た蘇我氏の仲間なのだそうである。
エジプト、イスラエルの方にも沢山の日本人がいたが時代と共に「ら」の音が理解できなくなったのである。
とうぜん、太安万侶は日本の神代文字は理解できず、アラさんも漢字はあまり解らなかったと言っている。
それで、二人参脚で古事記は出来たそうである。
アラさんは152歳までこちらの世界に居られたそうである。
もちろん、信じる信じないは皆さんの御自由です。。
2005/03/24
               
 044代:     TOP

元正天皇(げんしょうてんのう)
在位  715年 9月 2日〜
    724年 2月 4日

T-44元正天皇

元正天皇


元正天皇

草壁皇子と元明天皇の皇女。早世した文武天皇の同母姉にあたる。
 皇位継承が約束されている首皇子(後の聖武天皇で、元正天皇の甥)がまだ若く、母の元明天皇が年老いたことから、首皇子即位までの中継ぎとして元明天皇に譲位されて即位したという。
 養老律令や『日本書紀』の編纂を命じ、良田百万町開墾計画、三世一身の法を発した。
心やさしい天皇だったようである。
日本書紀完成した後に藤原不比等没す。
※日本書紀は720年に成立全30巻から成る。6国史の筆頭。神代から持統天皇。

長屋王(ながやおおきみ)(天武天皇の孫)の変起こる。
その二ヶ月後呪詛禁止の勅令。
               
 045代 :     TOP
 西の朝廷が始まる。東国の古墳を破壊し、古文書を焚書し、西で古墳、歴史書の捏造が始まる。
 背後はアオのイタ公(666=獣)、手先は中國人、朝鮮人ども。
 朝廷の文字が漢字となる。
 045代
聖武(しょうむ)天皇
在位  724年 2月 4日〜
    749年 7月 2日
T-45

文武天皇の皇子で、母藤原宮子は藤原不比等の娘にあたる。
 父帝文武崩御の際し、皇位を継ぐにはまだ幼かったため、
祖母の元明天皇、叔母の元正天皇が中継ぎとして立った後、元正天皇より譲位されて即位した。
 諸国に国分寺・国分尼寺の造営の詔を発し、東大寺の大仏の建立を命じた仏教心の厚い天皇として知られている。 懇田永年私財法 荘園が出来始める。 史上初めて皇女の阿部内親王(後の孝謙天皇=称徳天皇)を皇太子とし、これに譲位した。
藤原広嗣の乱(740)起こる。→肥前松浦で処刑され、大宰府を一時廃止。
               
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孝謙天皇(→称徳天皇)
在位  749年 7月 2日〜
    758年 8月 1日
T-48(46)

聖武天皇の第一皇女。皇女として初めて皇太子となり、聖武天皇に譲位されて即位した。
 父帝聖武太上天皇が没すると、遺詔に従って新田部親王の子、道祖王を皇太子に立てるが、言動がそぐわないとして皇太子の位を剥奪。台頭著しい藤原仲麻呂の進言によって、舎人親王の子、大炊王を皇太子に立て、翌年、大炊王(淳仁天皇)に譲位した。 譲位した後、弓削道鏡を寵愛し、それを咎めた淳仁天皇と激しく対立。政治の実権を淳仁から剥奪し、やがて重祚して称徳天皇となった。
               
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淳仁天皇
在位  758年 8月 1日〜
    764年10月 9日
T-47

舎人親王の子で、天武天皇の孫にあたる。 藤原仲麻呂の推挙によって、独身で後継がなかった孝謙天皇の皇太子となり、孝謙天皇の譲りを受けて即位した。
 道鏡を寵愛することを咎めたことで孝謙上皇の怒りを買い、国家の大事と賞罰権限を剥奪され、窮状を打開しようとした仲麻呂の挙兵も鎮定された。孝謙上皇は淳仁天皇の皇位を剥奪。
 淳仁天皇は、淡路島に幽閉された。
               
 048代:     TOP

称徳天皇(←孝謙天皇)
在位  764年10月 9日〜
    770年 8月 4日
聖武天皇の第一皇女。皇女として初めて皇太子となり、聖武天皇に譲位されて即位(孝謙天皇)した。
 父帝聖武太上天皇が没すると、遺詔に従って新田部親王の子、道祖王を皇太子に立てるが、言動がそぐわないとして皇太子の位を剥奪。台頭著しい藤原仲麻呂の進言によって、舎人親王の子、大炊王を皇太子に立て、翌年、大炊王(淳仁天皇)に譲位した。 譲位した後、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を寵愛し、それを咎めた淳仁天皇と激しく対立。
 ※道鏡は称徳天皇の信任を受け政界に進出した僧である。河内生まれ俗姓は弓削連。765年、太政大臣禅師に成るが、769年皇位を狙って失敗。(宇佐八幡宮信託事件)。770年下野薬師寺別当に落とされ死去。
 孝謙上皇は政治の実権を淳仁から剥奪し、やがて重祚して称徳天皇となったが、後を決めずに逝ってしまった。
 その後藤原氏が勢力を伸ばし忌部氏を阻害した。これにより皇室祭祀が乱れた。807年忌部(齋部)広成は古語拾遺をまとめる。  
               
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光仁天皇
在位  770年10月 1日〜
    781年 4月 3日
施基皇子の子で、天智天皇の孫にあたる。称徳天皇が後継を決めないまま没したため、諸王の中でも年長で、正三位大納言の要職にあったことから、推挙されて即日立太子。間もなく即位した。
 孝謙・称徳天皇の異母姉、井上内親王を皇后とし、その間にもうけられた他戸親王を皇太子としたが、井上皇后が天皇を呪詛しようとしているとして廃后。他戸も廃太子となった。
  これは、藤原式家の、藤原北家に対する陰謀讒言だったそうである。当時の最高権力者、藤原永手が暗殺された後に藤原式家の藤原良継が内臣として政権を握った。
 このため、井上内親王は讒言を認められ、他戸親王も連坐で地位を奪われ、幽閉先で毒殺されたそうである。
 
2008/01/30 更新
  夫人・高野新笠との間にもうけた山部親王(後の桓武天皇)を皇太子とし、老齢で病の床に伏したのを機に、これに譲位した。
               
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桓武天皇

 嘘八百の歴史記事ばかりでした。
在位  781年 4月 3日〜
    806年 3月17日

平城京から長岡京を経て、平安京に遷都した事は評価している方が多いようである。
平城京は利権が発生して、関係者が腐っていたのだと言う。
 ↓以下は全部百度です。更新平成28年6月8日
光仁天皇の第一皇子で、母は百済系渡来人の高野新笠。←嘘でした。
 父帝の即位に伴い親王となり、他戸親王の廃太子によって皇太子となった。病の床に伏した父帝の譲りを受けて即位した。 はじめ同母弟の早良親王を皇太子とするが、藤原種継暗殺事件にからんだとして廃太子。
早良親王は無実を訴え、ハンストを決行し、餓死してしまったと言う。
皇子安殿親王(後の平城天皇)を皇太子とした。
 数次に渡って大規模な征夷軍を派遣し、東北地方に版図を拡大。長岡京に遷都するが、凶事が続いたため、平安京に遷都した。
784年より現在の京都府長岡京市と向日(むこう)市を中心とした地に造営,遷都。翌年遷都の首唱者藤原種継(たねつぐ)の暗殺,暗殺の容疑者としての早良(さわら)親王廃立事件など不祥事件が続発,794年秦氏の土地、宇太、平安京に遷都。
aterui_more_01.jpg(25008 byte)801年、坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷を討つが、そのとき命を助ける約束で降伏させたアテルイとモレを、桓武天皇は坂上田村麻呂の約束も反古にし、即刻斬首にし半年以上にわたって晒し首にしたのだと言う。
坂上田村麻呂は坊主となり、この2名に詫びたそうである。