2012-02-08-03.jpg(201905 byte)
    
※フレームを付けます。メニューがない時はクリックしてください。
御代の番号を押してください。
 左欄がの様な色、赤文字は女帝です。
■天神  1234567前7後
■上古  12345678910111213141516171819202122232425

■鵜葺草葺不合朝(うがやふきあえずちょう)   21代  22代  31代 

■神倭朝(現在)
1. 2. 3. 4. 56. 7. 8. 9. 1011.12.13.14.1516.17.18.19.2021.22.23.24.25
26.27.28.29.3031.32.33.34.3536.37.38.39.4041.42.43.44.4546.47.48.49.50
51.52.53.54.5556.57.58.59.6061.62.63.64.6566.67.68.69.7071.72.73.74.75
76.77.78.79.8081.82.83.84.8586.87.88.89.9091.92.93.94.9596.97.98.99.100

101.102.103.104.105106.107.108.109.110
111.112.113.114.115116.117.118.119.120
121.122.123.124.125
....
北01.北02.北03.北04.北05....
・・元はこちらが正当な天皇家だったようです

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神倭(かんやまと)朝(現在125代) 始まり

柏原氷川神社

 始まりは出雲朝の聖地です。


 001代 : 神武(じんむ)天皇
神武天皇
在位 前660年 1月 1日〜
   前585年 3月11日

  在位期間75年
  享年127歳
人皇の時代である。 現在の歴史では原始時代に分類される。縄文時代である。
この頃大陸から多くの渡来人が日本に入ってきた。これは歴史の通りである。
当然大陸には蛮族が多かった。獣や、人を食う人種である。
メソポタミア、エジプト、インダス文明、黄河文明が起こっていた。既に日本もウガヤ朝の72代であった。
記紀ではウガヤ朝の事実の歴代数は書いていない。しかし、あったことは明記してある。
考えてもエジプト、インド、中国で文明が起こっていて日本で文明が起こっていなかった事はありえない。
考えられるのは攻撃的な他国が連合して攻めてきた事である。
その結果、大和と言う朝廷が出来たと言う事である。三和と言うのも沢山ある。
日本、中国、朝鮮の倭(=和)である。
誰が最初に日本を裏切ったのかは見ていけばお分かりに成ると思う。
帰化人の子孫は馬鹿の一つ覚えで日本を攻撃した。みんな大陸から来た、日本には文字は無かったと。
そんな帰化人を区別するために区分(姓)を付けた。これが弥生時代である。
もちろん一般人には教えない。役所では渡来人は区分けして朱書してあった。 危険な食人癖のあった渡来人には、人が殺され食われるからである。
神隠しと言うが、殺され焼かれて、あるいは煮て食われては、何も残らない事になる。
これが同和問題の初めである。隔離しないと危ないからである。
林、金、神、新、西、・・等つくものは沢山いる。

 こちらが鴻巣市の天神町に降臨された神武天皇です。

神武天皇

 私が以前から言っているように、日本書紀は、フジアン藤原不比等=中国人による偽書です。

日本書紀は中国人による偽書

 中国人は古事記に記載のある出雲朝を滅ぼし、日本の歴史を書き換えたのです。
西国では無数の古墳も捏造したのです。

Ten_001.jpg(66346 byte)

 こちらが出雲朝の柏原氷川神社です。

柏原氷川神社

 拝殿のカンヤマトイワレヒコ、神武天皇といわれる方です。出雲朝の方です。
出雲朝でお祀りしていた時は、天照皇大御神様はオオヒルメノムチと言われていました。

拝殿のカンヤマトイワレヒコ

 大六天神 神武天皇の陵跡です。

神武天皇の陵跡

神武天皇の陵跡

  以下は文献に頼っていた時の記事です。
皆中国人どもの捏造です。↓
平成25年05月26日


『日本書紀』の記述によると、甲寅の年(45歳の時)に兄の五瀬命らとともに日向高千穂宮を出発し、瀬戸内海を経て河内に上陸。
大和に向かうものの地元の豪族(本来の天皇?長脛彦)の抵抗に合い、紀伊熊野を迂回してようやく大和地方を制圧。
やはりコマ(高麗、中国)の人だったようである。当時の朝鮮は楽浪郡だった。中国は周の時代であった。
辛酉の年の元旦(太陽暦の2月11日)、橿原宮で即位を宣して初代天皇になったとされる。
これで大和(日本、中国、朝鮮→参和)のうねりが始まったわけである。
※このとき戦いに敗れ東北に流れた長髓彦(ながすねひこ)の子孫が古代東北史を書き残したのが東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)。 ←偽書とされたが、那賀須根比古の名は「那須」に残り墓は東北にあるそうです。
※物部氏は天皇より早く地上に居たと言うから、神武天皇の軍勢に降伏した(寝返った)豪族かもしれない。 物部氏の霊が居られます。日記参照
神話に因れば長髓彦は右腕とも言う家来が寝返ったため、神武天皇はとても勝てないと思われた戦いに3度目にして勝つことが出来たのだそうである。
この寝返ったのが物部氏の先祖らしい。関ケ原でも同じ様な事があったような気もする・・。
正に歴史は繰り返すのかもしれない。
その後、大和朝は勢力を拡大し出雲朝をせめて滅ぼす様である。これは記紀には載っていない。
倭国大乱と言うのが載っているが、この事かもしれない。
←大乱の地と言われる。出雲の剣山周辺。
長髓彦の子孫は東北に逃げ、やがて東北では蝦夷の乱が起こる。
神武天皇やその祖先が九州以前は何処に居たか?
それはまだ不明である。(後にジンバブエと判明、日記に掲載)琉球もハワイも王国だったのである。
蝦夷もアイヌのものだったし、アメリカはインデイアンのものであった。
争いに勝った者が先住民の文化を駆逐し王様(=支配者)に成ったわけである。
やはり、王様には由緒正しい歴史、権威が必要である。それには歴史書が必要である。
それで、戦争に勝った権力者は負かした国の歴史を葬るのである。
図書を焼き、学者を殺した焚書(BC213)坑儒(BC214)もその一例である。
蘇我蝦夷も蘇我入鹿が殺されて自害する時、用意していた膨大な日本の歴史ととも火中に消えたそうである。


 大化の改新に先立っては、聖徳太子も豪族から集めた膨大な文献を燃やしたそうである。
 権力者は庶民には余計な知恵をつけないほうが操りやすいからである。
 なにしろ出雲朝では税金も取らなかったそうである。・・
 その結果縄文時代以前には、日本には文字も稲作も無かった事になった。
 漢字はもちろん中国のものである。神武天皇は何処の人間だったか?
 この時から、今の天皇家は天の浮舟(=貴船、岩船)を動かす事ができなくなったのだそうである。
 それで、本来の天皇の仕事のひとつ、世界巡幸が出来なくなってしまった様である。
 帰化人の子孫は天の浮舟などあったはずが無いと言う。それだけで帰化人の子孫たちの霊性の低さが解る。
 彼らは本来の日本人の心を失わせ、食肉を普及させた。恐ろしい事である。この感覚が解るであろうか。
 中国人は争いで戦った相手を殺して食っていたのである。本当に食うか食われるかだったのである。
 それで彼らの子孫は狩猟をするのである。
 子供が不登校になるのもそんな参国人の祖先のDNAを持った教員が学校にいることが多い。
 理屈ではなく、純な子供は解るのである。それで恐ろしくて学校に行けないのである。
 新日本や第参文明などは思っても間違いである。帰化人の子孫の日本壊滅作戦である。
 大和、三和(参和)、新日本、第参文明は破滅のキーワードのようである。
 神武天皇が何処の国の方と言うと多くの方が言うとおり、駒宮(=高麗宮)が住居だった事から中国系の方と考えるのが自然な様です。  
2005/08/31
・有名な八咫烏とは、神武天皇の発した一切の証拠を消せとの号令のことであった。
 八咫烏を飛ばしたと言うのは、証拠を消したと言うことである。
神日本磐余彦尊   かむやまといわれひこのみこと
狭野 さぬ、さの始馭天下之天皇  はつくにしらす
彦火々出見 ひこほほでみ
宇禰備能可志婆良能宮御宇天皇
うねびのかしはらのみやにあめのしたしろしめす
誕生・庚午年(前711)1月1日
立太子・甲申年(前697)
即位・神武元年(前660)1月1日
崩御・神武76年(前585)3月11日(127歳)
皇后・媛蹈韃五十鈴媛命 ひめたたらいすずひめ妃・吾平津媛 あひらつひめ 鵜葺草葺不合命
 うがやふきあへずのみこと
玉依姫命
 たまよりひめのみこと
手研耳命、神八井耳命、神渟名川耳尊(綏靖天皇)、岐須美々命 畝傍橿原宮 うねびのかしはらのみや……奈良県橿原市久米町 畝傍山東北陵 うねびのやまのうしとらのすみのみささぎ……奈良県橿原市大久保町
 002代   TOP

綏靖(すいぜい)天皇
在位 前581年 1月 8日〜
   前549年 5月10日
誕生・神武29年(前632)
立太子・神武42年(前619)1月3日
即位・綏靖元年(前581)1月8日
崩御・綏靖33年(前549)5月10日(84歳)

io
綏靖天皇

 以下は一般的な、この世の話です。事実は全く違います。

T-02
 朝廷はここにあったそうです。陵は海中だそうです。

朝廷所在地

 皇居は大磯町役場の隣だったそうです。

皇居

 以下は古い記事で修正箇所があります。

いわゆる欠史八代の一人で、神武天皇の第三皇子。
 神武天皇の没後、長兄の手研耳命が異母兄の自分たちを殺害しようとしていることを知り、逆にこれを討って即位。葛城高丘に皇居を定め、母の妹である五十鈴依媛命を娶って皇后とした。
 神武天皇を父とする三兄弟の末皇子である綏靖天皇は、2人の弟を殺し皇位を奪おうという野心を持った異母兄で長兄の手研耳命(たぎしみみのみこと)の謀を事前に知り、すぐ上の兄である神八井耳命(かみやいみみのみこと)と共に先手をうって手研耳命を殺そうします。
 その際武器を持って先に部屋に入ったにもかかわらず恐れをなして長兄を殺す事ができなかった神八井耳命に代わって手を下したのが綏靖天皇でした。
 神八井耳命はこれを恥じ弟の方が皇位にふさわしいと述べてその地位を譲ります。
四人兄弟の末皇子だった神武天皇に続き、やはり三人兄弟の末皇子である綏靖天皇が皇位についているのは古代の末子相続の思想がこの伝説の中に名残として残っているからだといわれています。
この方は異母兄弟とされています。母は印度の方だったようです。
かっては、竹内文書にある通り、天皇は世界の天皇だったのです。国境がありませんでした。
世界各地の交流も自由でした。あるときから、地球上の特定地域の者が見栄、物欲と言う悪魔に襲われたのだそうです。
神武天皇以後、日本の歴史は大国に蹂躙されて来ました。
何故神務天皇が死ぬ様な思いで本州に攻めて来なければならなかったか? 皆様も考えてください。
やらなければ誰かに殺されたからです。他に理由はありません。
2005/08/31
 
             
 003代TOP

安寧天皇

 お釈迦様

 朝廷を守るヘイは伊予文字を使用。崇神天皇まで。
須弥山同様、粘土板を使用。

伊予文字

 以下は戯言

在位 前549年 7月 3日〜
   前511年12月 6日
誕生・綏靖5年(前577)
   立太子・綏靖25年(前557)1月7日
即位・綏靖33年(前549)7月3日
崩御・安寧38年(前511)12月6日(67歳)

oshakasama
T-03

 朝廷は、ここにあったそうです。

朝廷跡

 以下は古い記事で、誤りがあります。
平成25年05月27日

綏靖天皇の第一皇子。
欠史八代の一人で、御名、皇居、配偶者、皇子女、在位期間、享年、陵墓などが記載されているだけで、治績はまったく残されていない。
この時代に孔子が日本に来日し皇祖皇大神宮で学んだそうである。
相当数の中国人が来日した様である。
この方は中央アジア系(イザナミのように現在のアフガニスタン辺りか)の母の様です。
               
 004代   TOP

懿徳(いとく)天皇
在位 前510年 2月 4日〜
   前477年 9月 8日
誕生・綏靖29年(前553)
立太子・安寧11年(前538)1月1日
即位・懿徳元年(前510)2月4日
崩御・懿徳34年(前477)9月8日(77歳)
懿徳天皇
懿徳天皇



 出身は西ベンガル地方だそうです。

出身地


安寧天皇の第二皇子。
欠史八代の一人で、御名、皇居、配偶者、皇子女、在位期間、享年、陵墓などが記載されているだけで、治績はまったく残されていない。
この方の母は英国系の方のようです。

 実際の陵墓は、ここだったそうです。
土は他の古墳同様、土手に使われました。

懿徳天皇陵墓
               
 005代   TOP

孝昭天皇
在位 前475年 1月 9日〜
   前393年 8月 5日
誕生・懿徳5年(前506)
立太子・懿徳22年(前489)2月12日
即位・孝昭元年(前475)1月9日
崩御・孝昭83年(前393)8月5日(114歳)
↓以後100歳以上の天皇が続く。2代から9代まで渡来人であった。
そうでなければ治績があるはずである。
↑ずっと思っていたのですが、治績は大国の圧力で削除されたのだそうです。
崇神天皇を初代天皇にしたい勢力にだそうです。
確かに西暦とも頃合が良いと思いますが、よその国の都合を押し付けられては・・。
孝昭天皇

孝昭天皇陵
孝昭天皇


 以下は古い記事で、誤りがあります。
平成25年05月27日

欠史八代の一人で、御名、皇居、配偶者、皇子女、在位期間、享年、陵墓などが記載されているだけで、治績はまったく残されていない。

この方から、天皇の御存命期間が急に長くなりました。
天皇のDNAが変わったからです。「考」の字がつく天皇が4代続きます。
これは母方が中東の方だそうです。「土ノ子」です。
日本で噂の「ツチノコ」ではありません。誇り高いといわれるツチ族の様です。
土は一を足すと王になります。元々、土もエジプト(=埃及)を示しています。「+」は祈り、魔よけを示します。
日本とエジプトは大変縁の深かった国なのです。
2005/08/31

・この方の御代に武蔵一宮である氷川神社が建立されたと言う。創建は、氷川神社の社伝では孝昭天皇三年四月中の未の日とされる。 素盞嗚尊・稲田姫命・大己貴命(大国主神の若い時の名)三神を祀ったという。武闘派の神社だったようである。
皆出雲の神とされている。そのためか、成務天皇の時代に出雲の兄多毛比命(えたもひのみこと)が武蔵国造となり、氷川神社を崇敬した。
旧大宮市一帯は出雲族が開拓した地であり、武蔵国造は出雲国造と同族とされる?
この出雲族は、もちろん神武天皇に鞍替えしたものたちである。かっての出雲大社は信じられないほど大きかったそうである。 これも歴史の闇に埋もれていたのである。 社名の「氷川」も出雲の「簸川」に由来するという説がある。
 確かに神武天皇に敗れた長脛彦一族が、東北に逃げる途中、旧大宮市で大きな神社を創っていたとしても不思議ではない。
氷川という地名も埼玉東京の各地にあり、武蔵の国は相当広大な範囲だった事はうなづける。氷川神社も300近くあると思う。
・実はこの御代において、関東との交流を図ろうとしていたのではないかと思う。浦和の調神社も社伝において第9代の開花天皇の時に建立された事になっているからである。
 調神社の創建は現実にはもっと古いようである。
2006年05月30日
               
 006代   TOP

孝安天皇
   在位 前392年 1月 7日〜
   前291年 1月 9日
誕生・孝昭49年(前427)
立太子・孝昭68年(前408)1月14日
即位・孝安元年(前392)1月7日
崩御・孝安102年(前291)1月9日(137歳)

孝安天皇
孝安天皇の神璽
孝安天皇

 高野山とは皇八山の事。

孝安天皇陵

欠史八代の一人で、御名、皇居、配偶者、皇子女、在位期間、享年、陵墓などが記載されているだけで、治績はまったく残されていない。
               
 007代   TOP

孝霊天皇
在位 前290年 1月12日〜
   前215年 2月 8日
誕生・孝安51年(前342)
立太子・孝安76年(前317)1月5日
即位・孝霊元年(前290)1月12日
崩御・孝霊76年(前215)2月8日(128歳)

 更新 平成25年02月02日
孝霊天皇  
孝霊天皇

 古墳は円墳で、鴻巣市の三ツ木から川面にかけてあったそうです。

 古墳の位置

 証に降臨された神々、お地蔵様です。

神々、お地蔵様

欠史八代の一人で、御名、皇居、配偶者、皇子女、在位期間、享年、陵墓などが記載されているだけで、治績はまったく残されていない。
これは貴重な鬼退治の話があった山であるが、これは上古16代の天皇の陵だったそうである。
退治した鬼というのはこの山を守るサンガだった様である。
ピラミッド型の山の上に光の輪がついている。
上が剣山で下が楽々福来神社である。
剣山は徳島にもあるが、やはりピラミッドと言われている。








               
 008代   TOP

孝元天皇 (タムラ族)
在位 前214年 1月14日〜
   前158年 9月 2日
誕生・孝霊18年(前273)
立太子・孝霊36年(前255)1月1日
即位・孝元元年(前214)1月14日
崩御・孝元58年(前158)9月2日(116歳)

孝元天皇

 朝廷で使用していた文字。

伊予文字

アカとアオ
孝元天皇様

2013-05-09-20.jpg(176016 byte)
孝元天皇


 フジアン、中国人どもの焚書捏造により嘘ばかりです。

欠史八代の一人で、御名、皇居、配偶者、皇子女、在位期間、享年、陵墓などが記載されているだけで、治績はまったく残されていない。
武内宿禰はこの天皇の孫、または曾孫と言われている。
               
 009代   TOP

開化天皇
在位 前158年11月12日〜
   前 98年 4月 9日
誕生・孝元7年(前208)
立太子・孝元22年(前193)1月14日
即位・孝元57年(前158)11月12日
崩御・開化60年(前98)4月9日(111歳)
開化天皇

開化天皇
開化天皇

開化天皇

開化天皇近くの川

開化天皇陵


開化天皇陵

欠史八代の一人で、御名、皇居、配偶者、皇子女、在位期間、享年、陵墓などが記載されているだけで、治績はまったく残されていない。

さいたま市浦和の調神社は、開花乙酉(22)年に元社が建立されたと記録がある。
この方がモーゼと呼ばれた方だそうです。
               
   TOP

 010代 : 崇神(すじん)天皇
在位 前 97年 1月13日〜
   前 30年12月 5日

   在位67年
   誕生・開化10年(前148)
   立太子・開化28年(前130)1月5日
   即位・崇神元年(前97)1月13日(即位51歳)
   崩御・崇神68年(前30)12月5日(119歳)
   在位期間68年

水星   学校の歴史は侵略者の嘘がいっぱいでした。
以下も嘘です。
平成25年04月23日更新中
日本史の謎、「太田田根子」
太田田根子は茅渟県の陶邑(大阪堺辺り)の出身だと言う。
本人が来たので聞いてみた。 出身は朝鮮半島だったと言う。そして、現在の岡山、美和を経て大阪に入ったそうである。
性別は女性であったと言う。不思議な事に人の霊の姿が見えなかった。
私も昔から、太田田根子とはどのような人か気になっていたのである。 父は大物主命で母は活玉依媛(いくたまよりひめ)だと言う。 大物主命は蛇だとか諸説あるが、これは海を渡ってきた「伊」である。そして活玉依媛とは「仏」である。
それでは太田田根子とは誰かと言うと須恵器である。
sueki_kouhai.jpg(3382 byte)  oota_taneko.jpg(13820 byte) 太田田根子と出身地
太田は今のテジョンである。
太田の田圃の土根子で太田田根子である。
その土地の霊を産土神と言う。私のところにはこの霊が来たのである。

須恵器は水を漏らさず、従来の土器に比べ、とても便利であった。 それで神棚の前に榊やお神酒をお供えできるようになったというわけである。 現在の歴史では、この時まだ日本に釜はなかったことに成っている。朝鮮で焼いたものだそうである。
朝鮮はすでに「伊」が完全に支配していたのである。 神様を神前でお祭りしているのが太田田根子(=須恵器)である。
そして、この時から伊勢神宮は伊を奉る神社として構想されるのである。
そして、垂仁天皇が「伊」を祭る伊勢神宮を建立したわけである。
2006/04/10
神明神社

 下は補正拡大です。

本当の崇神天皇陵

 ここが本当の崇神天皇陵だったそうです。

T-10


漢風諡号(しごう)が示すとおり、大田田根子に大物主神を祀らせるなど、祭祀を充実させたと伝えられている。
 また北陸・東海・西海・丹波に四道将軍を派遣、国内の統治基盤(財政制度)を整えたことから、神武天皇と同じく「ハツクニシラススメラミコト」と称されており、初代天皇を崇神に求める研究者も少なくない。

天津蹈鞴秘文(あまつたたらひふみ)』 とは、神武(じんむ)天皇の大和平定の砌(みぎり)、神政一致による治国・経綸(けいりん)の大業を記した宝巻にして、 その後、皇歴10代・崇神(すじん)天皇の7年(BC.92)、大田田根子(おおたたねこ)に命じて、大物主神(おおものぬしのかみ)(まつ)らしめ、神殿に安置したものという。
※大物主神は出雲の神で皇室と関係が深い。
 「あまつたたらひふみ」とは「天津」とは天の神々の集う事で、「蹈鞴」は足踏みして高炉に空気を送り込む物、(ふいご)の一種だという。
神代からあった蹈鞴製鉄の秘法を示した文書だったと考えると自然かもしれない。そして、たたらという言葉が世界中に広まったのである。何故世界一の製鉄技術が西から来たことに成ったのか?
 日本刀が世界一であったのは良質な玉がねと刀工がいたからである。
 これは「ひひいろかね」の製法等も記してあったのかと思う。

 大嘗祭は新たに皇位を継承した天皇が、その年の新穀を天照大神(あまてらすおおみのかみ)天神地祇(てんじんちぎ)(天津神、国津神。御食造神(みけつしん)=稲荷神。宇迦魂大神(天津神)と佐田彦大神(国津神))に献ずる儀式である。古事記を参照すると諸々の事実が解る。宇佐とは、この2柱の大神の頭の字である。
2006年05月13日

 大嘗祭は天皇一世一代の大神事である。これは崇神天皇以降に定められたものだという。
そして天照大神とは既に述べた様に上古22代の天疎日向津比売天皇(あまさかるひにむかいつひめのすめらみこと)なのだそうである。
その次の垂任天皇の御代に伊勢神宮の内宮に天照大神は祭られている。
外宮の豊受大神が鎮座されたのは雄略天皇の時とされる。

私見であるが、上記8代は日本の方ではない。日本の方なら治績の残っていないはずは無い。(←ずっと思っていたのですが、治績は大国の圧力で削除されたのだそうです。
崇神天皇を初代天皇にしたい勢力にだそうです。
確かに西暦とも頃合が良いと思いますが、よその国の都合を押し付けられては・・。)
それでもこの方たちの子孫は歴史に名を残す豪族となっている者もいる。
元々は天皇家の者が世界中に散っているのである。
この問題はあまり重要ではない。闇に潜む敵は世界中の天皇家の子孫を滅亡させたいものである。
人類の殆どが滅亡するかもしれない・・なにしろ「旧約聖書」で最初の人類と言われるアダムとイブもスメラミコトの皇女ヨイロバアダムイブヒと赤人女祖氏(あかひとめそたい)だったのだそうである。
そしてモーゼは当然その子孫である。
第2次世界大戦のアメリカの原爆爆撃機エノラゲイとは「王を殲滅せよ」と言う意味だったという。
東京は計画的とも思える大空襲により、証拠として大審院に提出してあった古代天皇家の4千点とも言われる御神宝の調査記録は皆焼けてしまったのである。
それにも拘わらず、大審院判決は皇祖皇大神宮天津教の勝ちであった。
神代にまで遡る古代天皇家の存在は否定できないと大審院が判決したのである。
それでも竹内文書を偽物と言う者がいるのは、その者が帰化人工作員の子孫だからである。
大審院で勝った者を法的にも偽物とは言えるはずは無い。
兵庫の九鬼家でも戦争による天皇の神格化を理由に、多くの貴重な文書を憲兵に持ち去られてしまったそうである。
今までの戦争は皆闇に潜む、欲ボケの者が起こしたからである。
今のおかしな世界は、この世しか見えなくなった愚か者、帰化人工作員の子孫が、地位、名誉、財産、恐怖に目を眩ませた結果現れた世界である。

伊香色謎命 (いかがしこめのみこと)
【活躍時期:孝元・開化・崇神】
 孝元天皇妃。開化天皇皇后。崇神天皇の母。
 何処の国の方と思いますか?
 伊香保とは石段がとても立派です。「伊」が香ったのだと思います。
 そして11代垂任天皇は伊勢神宮を建立する事に成る訳です。
               
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 011代 : 垂仁(すいにん)天皇
在位 前 29年 1月 2日〜
     70年 7月14日
   在位41年
     誕生・崇神29年(前69)1月1日
     立太子・崇神48年(前50)4月19日
     即位・垂仁元年(前29)1月2日(40歳)
     崩御・垂仁99年(70)7月14日(139歳)
     在位期間99年 heraiduka_w280.jpg(77619 byte)
・青森にある十来塚。キリストの墓と言われている。旧戸来村(現在の新郷村)にある。
十三港(とさみなと)から、この地に入ったイエス様は十和田湖の隣の三戸郡戸来村で、八戸太郎と言う名で人生を過ごされたそうである。
今も「伊」のものが見に来た。イエス様も伊の圧力に追われていたのである。
                     2006年04月22日


平成22年12月25日撮影のイエス様です。

2010_12_25_12-2.jpg
イスラエルは紀元前722年にアッシリアにより滅ぼされて、10部族は地方を追放される。
失われた十部族は甲乙丙丁・・で十部族だったのである。八甲田山、八戸は偶然に付いた地名ではないのである。 もちろん十和田湖もである。
イスラエルの民(ヘブライ人)、ユダの十部族は神に導かれ、この地に来たのだと言う。ソロモンの話し参照。
2006年04月26日
垂仁天皇様


垂仁天皇

崇神天皇の第三皇子で、父帝の夢占によって皇太子に立てられたとされる。 初め狭穂姫を皇后に立てたが、狭穂彦の反乱鎮定の際に兄を追って狭穂姫は自殺。次いで日葉酢媛を皇后に立てた。
 父帝に倣って祭祀を充実させ、伊勢神宮を創始。  「伊勢」とは当時の伊太利亜(ローマ帝国)の勢いに(あやか)りたく、「伊勢神宮」と命名したそうである。
 伊勢崎や伊勢原等沢山「伊勢」に因んだ地名がある。
 葬儀の際の殉死を禁じ、代わりに人馬をかたどった埴輪を陵墓に立てるようにしたと伝えられている。
※キリスト来日皇祖皇太神宮で学ぶ。

太田姫稲荷神社のお狐さんによると、垂仁天皇の御所は埼玉県吉見町にあったそうである。13代成務天皇までお住まいだったそうである。
 これまで述べてきた事と、話があっている。この記録は、大和政権に葬られてしまった。
2008/02/14

吉見町の御所

・この時代に卑弥呼は邪馬台国の女王になり、その死の時には100人もの奴婢が殉葬されたと言う。
したがって、日本にも倭朝廷以外に複数の朝廷があったと考えるのが自然である。
もちろん、その様な朝廷は歴史から削除されているのは当然である。
・伊との長い付き合いは、日独伊の3国同盟でもわかると思う。 ローマとは「支配者」の意味で、イタリアに起こり、神聖ローマ帝国(現在のドイツ)へと繋がる。
そして伊の血脈は伊賀者の服部半蔵、徳川にまで繋がっているわけである。 服部半蔵は陰で徳川を支えた。どちらも「イ」が見えると思う。 そして、それはイザナギ、イザナミ、伊勢神宮と繋がってきたのである。 イの一番と言う意味がお解かりに成ったかと思う。そして、徳川家康のキリシタン追放、鎖国はこれも原因である。
 キリシタン大名はやはりイと対立していた先祖の者が多いのだそうである。
 古い家には凄い量の巻物がある。家系図は家宝なのだそうである。何も知らぬのが良いのか悪いのか?それは人によると思う。
 イエス様が蝦夷(中央に従わぬ意味)の地に参られたのもそのせいである。  かっては東国(おおよそ現在の岐阜の関より東(不破の関、愛発(あらち)の関、鈴鹿の関より東))は別の国だったのである。それで、部下の裏切りで神武天皇に破れた長脛彦も逃げてきたのである。
・イエス様と「13」のご縁は、死刑にされた日ではなく、上古の13代様のご縁だったそうである。
 十三港もそうだが、上古の13代様はイエス様も指導したそうである。イエス様も本来の天皇家の人間と言われている。
 アメリカの建国も13の州から始まったのである。13は本来は偉大な数なのに、フリ−メーソン同様に一般的に忌み嫌われてしまった。これも影の工作員たちの仕業である。13とは天界に通じる数である。
               
 012代:     TOP

景行天皇
在位
    71年 7月11日〜
    130年11月 7日
   在位59年
   誕生・垂仁17年(前13)
    立太子・垂仁37年(8)1月1日
    即位・景行元年(71)7月11日(84歳)
    崩御・景行60年(130)11月7日(143歳)
    在位期間60年

 孔雀明王とは、この景行天皇様です。この写真は十二所神社です。

景行天皇様
yamatotakeru.jpg(56866 byte)
日本武尊はご覧のように女子だったそうです。 熊襲の王は、この容姿に騙されてしまって討たれたようです。

景行天皇


景行天皇
垂仁天皇の第三皇子で、父帝に望むものを聞かれた際、兄の五十瓊敷入彦命が弓矢を望んだのに対し、皇位を望んでそれを許されて即位した。
七十七人の皇子女を諸国に分封し、諸国の別の祖とするなど全国的に勢力を広げ、皇后播磨稲日大郎との間に生まれた日本武尊に九州の熊襲や東国の蝦夷(=東北、北海道)を鎮定させたと伝えられている。 

武内宿禰が仕えた最初の天皇。写真は、平成23年十月に管理人が撮影したものです。

武内宿禰

景行天皇は武内宿禰に北陸・東北視察を命じる。これが偉功の発端だったと思われる。
武内宿禰は360歳以上まで生きて姿を消したと言われる。
仁徳天皇の晩年まで仕えたのなら、単純計算で通算は328年にもなる。
この武内宿禰の子孫なら皆大臣(おおおみ)に成っても不思議ではない。

takeuchi_sukune.jpg(8650 byte) ・左は竹内宿禰の肖像画と言われている。
竹内宿禰は琵琶を奏でた。琵琶の音色は語り話を幻想に導く様である。
神功天皇の傍にいた竹内宿禰が印象的である。
・日本武尊は竹之内宿禰と共に東国を歩いたそうである。
・こぶが峰、古峯神社(ふるみね神社)に日本武尊が祭られているが、「こぶ」とは埼玉古墳群を示すのだそうである。
確かに、関東平野の「こぶ」のようである。
そして、竹之内宿禰も埼玉古墳群は縁のある地だといっているので信憑性があるかもしれない。
 今尋ねたら、埼玉の鉄剣にあるワカタケル大王と言う銘は、21代の雄略天皇ではなく、日本武尊の事だったのだそうである。
 そして、埴輪は垂仁天皇の時代から作り始められている。
 歴史的に考えても、日本武尊が埼玉(さきたま)の地を通った可能性は、雄略天皇が来た可能性よりはるかに高い。
 もちろん、外圧により埼玉古墳は6世紀以降に造られた事にされてしまっているから、事実は公表されないのである。
 
2006/04/07
辛亥年を471年としたのは、公の歴史の都合からである。
辛亥年は60年毎にある。360年前が111年に当たり、史実とも合っている。
埼玉古墳の歴史も変わると考える。
2007/04/08
 
               
 013代:      TOP

成務天皇
在位  131年 1月 5日〜
    190年 6月11日
誕生・景行14年(84)
立太子・景行51年(121)8月4日
即位・成務元年(131)1月5日(49歳)
崩御・成務60年(190)6月11日(107歳)
在位期間58年

omizumu.gif

2005/04/01 記

shashu_13_01.jpg(2428 byte)朝、埼玉(=前玉)古墳のところを見ていたら、「コン」と社主(太郎子山稲荷神社の稲荷狐、写真のお狐さん )が私を呼びました。
良い方が来たと言うのです。気がつくと冠を被られた13代様が見えられました。
自分で作ったページなのですが、前に埼玉古墳はウガヤ31代様から造営され、その後衰退し、神倭朝13代様が復興した古墳であると自分で書いていました。
この方は送ったお名前でも解る通りの立派な天皇でした。
今は木星霊界の菩薩の世界におられます。この世界の方で無いと、この世と正しく交信できません。
13代様によると、竹内宿禰は12代景行天皇に使えた者がこの地に来た時、その存在を知ったのだそうです。 13代様は百済の方でした。
そう言えば、この辺には竹内と言う者も多数おり、私の同級生でも竹内宿禰の子孫だと言う者もおりました。
竹内宿禰は元々が天皇家の歴史を守っていた者なのだそうです。 それで12代様の命を受けた者は竹内宿禰を大和に連れて行ったのだそうです。
その後13代様が初の大臣に任命するわけです。
13代様によると日本の天皇家の真の系図は中国人の攻撃でおかしくなったのだそうです。
大きなうねりは神武天皇から4代天皇までで、これは中国人だったそうです。(05/04/24更新)
そのため日本は漢字の国に成ってしまいました。元は神代文字です。ハングルも神代文字の名残なのです。
一般には漢字の伝来は1世紀と言われていますが、もっと早かったのです。
そのため、百済から奪われた皇室を取り戻しに来たそうです。このため百済出身の天皇、皇后が多いのです。
新羅は当時は別の国で、百済とは仲が悪かったそうです。後に中国などと組、百済を滅ぼします。
百済と日本の関係は皇祖皇太神宮の菊の御紋の裏の神代文字を見れば判ります。
その後8代、9代様はエジプトから帰って来た皇室の方だったそうです。
10代崇神天皇を神倭朝の初代にすべきと言う方も多いですが、この方も地中海から帰って来た方だそうです。
日ユ同祖論がありますが元は皇室から派遣された人たちが帰って来たのです。 →帰化人と単なる渡来人の違いです。
ユダヤの消えた十部族の内、二つの部族が蘇我を名乗ったそうです。
甲乙丙丁・・で10部族です。
甲賀、八甲田、六甲山・・等多数の地名があります。
青森県の新郷村(旧戸来村)はイエス様が人生を送られた地であり、八戸の他にも戸(ヘブライ)のつく地名が沢山あります。
埼玉にも戸がつく地名は沢山あります。今は人のいる事を示す「戸」ですが、かってはヘブライ人を示していたそうです。
ヘブライ人とはカナンに住み,農業・牧畜を生業としたセム系遊牧民集団。イスラエル人の別名。 ユダヤ人に対してヘブライ人とも呼ばれたそうです。
elsaharem_02.jpg(31055 byte)
今の私たちが考えるよりはるかに大きな交流があったそうです。
25代武烈天皇は新羅の者だそうです。 そのため子供も無く、謎と言われる26代継体天皇は大伴金村がインドから呼んだ方だったそうです。 大和に入れなかったのも無理はありません。
この流れから筑紫国造の岩井(先祖はイラクから来た者らしい)が新羅と手を組み謀反を起こしたそうです。
確かに流れはあっていると思います。
九州こそが本来の倭人の地です。
成務天皇

成務天皇
 成務天皇陵はこちらだったそうです。

成務天皇陵

 皇居跡と朝廷跡です。

皇居跡

 朝廷跡は宮殿様と言うお社があります。
既に1800年以上が経っています。

朝廷跡

 以下は古い記事で修正箇所があります。

景行天皇の八十人の皇子女のうち、日本武尊、五邇百城入彦とともに手元に残された一人で、父帝の跡を継ぎ国造、県主を定めるなど、地方行政組織を整備した。同日生まれの武内宿禰を寵愛して大臣に任じ、それが大臣の起源となった。
 『古事記』によれば、兄の日本武尊の功績を尊重して、実子の和訶奴気王をさしおいて、日本武尊の息子を皇太子としたという。
※武内宿禰は8代孝元天皇の曾孫(一説に孫)と言われ、景行、成務、仲哀、応神、仁徳の5朝に仕え、偉功があったとされる。

武内宿禰が仕えた2人目の天皇

八幡神は応神天皇、比売神(ひめしん)3柱、神功(じんぐう)皇后の3神(5柱)とされる。
※神功皇后は明治以前は15代天皇として祭られていた。
記紀では神功皇后(神功天皇)は卑弥呼とされている。
明治政府が天皇の御位を改竄したのは、神功皇后(天皇)が新羅、百済を属国にしており、朝鮮半島を経て大陸から人が移住しやすい状況が生まれていたからのようである。
当然百済新羅とはもめたかと思う。391年倭は仁徳天皇の時代に新羅百済を破る事になる。 国を捨て逃げてきた渡来人は、受け入れてくれた慈悲深い八幡様をお祭したのは当然である。
それで八幡神社、八幡宮は稲荷神社に次ぐ日本第2位の勢力を誇っているのである。
それに比べ、今の日本の北朝鮮の人に対する受け入れを考えていただきたい。
どれほどの数の渡来人が来たかは不明である。
訳が解らなく成るので、出身地別に呼び名をつけ(=弥生)、住居地区を分けた。 文字通り同和の地区を設けたのである。仕方無かったと思う。
状況的に難民を受け入れた格好である。やがて、同和地区の難民集団が権利を主張し大和の時代に向かう。
同和地区の差別撤廃→大和である。
同和地区の人も代を重ねると、本当の日本人を名乗りたくなったそうである。 それで氏姓を偽る者が後世出てきたのは当然である。
19代允恭天皇の時、社会問題化し、天皇はこれを正すため「くがたち」を行う事に成る。
出身国 後に多く名乗った姓名
百済
(伊太利亜)
金子、金田、金系の苗字。田や中のつく苗字。畑はインドで無く百済系。
高橋、石田、石○等、石系の苗字。これはローマ帝国の人間である。伊太利亜は石の国である。 弥生時代の当時はローマ帝国が絶頂を迎え衰退に向かった時である。
新羅 新井は有名過ぎるほど多い。土地でもめている者が多い。今も竹島でもめている。 どうにもならないDNAの様である。
高句麗 白田、白井等白のつく苗字
地中海沿岸(ユダヤの地) 蘇我氏が代表。元は皇族だそうである。石川は傍系。
インド北部(天竺) 秦、羽田、旗、八田、波多、ハタ系、稲田、稲盛、平田、平井等
中国、他 林系の者。大林、中林、小林、林等沢山いる。
比売神は12代景行天皇の80人の皇子女の内の3人の姉妹だったそうである。成務天皇の兄弟姉妹に当たるわけだが、80人の皇子女の内、男子は三名しかいなかったそうである。写真左の方は諏訪に行って信仰の中で人生を送った様であるが、この方が八幡神の中心と成って活動しているそうである。私が瞑想中に、私のところに来て眷族のお狐さんの事なども教えてくれたのである。
下の写真が見つかったのは、記事を書いてからしばらくしてからである。
まさに尼僧様、菩薩様である。
himeshinsama
出雲の神にも建御名方神と八坂刀神が大和に屈しなかった神とされている。
出雲では神事として鹿の頭を供えるそうである。農作物の害獣をを駆除し豊作を祈る神としても信仰されている。
管理人の私見(比売神様のお言葉)であるが、当時は出雲朝と大和朝は不可侵関係であった様である。ある時(23代顕宗天皇の時)大和朝のものが突如攻めて来たのだそうである。その先頭にいた者が中臣氏(後の藤原氏)であった。藤原氏が建立した春日大社は鹿島、香取から勧請した2神を祭り、鹿が眷族とされている。藤原氏の祖先が鹿島の出であったと言われる事の証である。
それで出雲の神のお供えに憎き藤原氏の眷族の鹿の頭が供えられる様である。
農作物の害獣をを駆除し豊作を祈る神と言えば稲荷神様が有名である。この眷族と言えば日本一の勢力を誇る稲荷大明神の眷族、お狐さんである。それで、八幡神の内の比売神の眷族としてお狐さんが手伝っているのである。ただし、お狐さんがいるのは出雲系では諏訪だけだそうである。八幡宮、八幡神社と言うところには相当な数のお狐さんがいる様である。
また八幡様は仏教系でも大菩薩としても信仰されている。
左の比売神様を見ると納得されると思う。当時は朝廷では仏教は認めていなかった。 聖徳太子の時代に蘇我氏と物部氏が戦争をして、やっと仏教は解禁となったわけだが、それまで日本に伝来していなかったと言う証拠も無い。
皇室に生まれた女性が信仰に生きるには、かすかに伝わってきた仏教しかなかったのかもしれない。
いくらインドがかって遠い国だったとしても、お釈迦様の誕生から600年もの歳月の間には何か伝わっていても不思議ではない。
何しろ、お釈迦様さえ皇祖皇大神宮で学んでいる事を本サイトは支持しているのである。
もしかしたら、お釈迦様も帰る前に何か教えも残していたかもしれない。
 誕生・景行14年(84)立太子・景行51年(121)8月4日即位・成務元年(131)1月5日崩御・成務60年(190)6月11日(107歳)              
 014代:     TOP

仲哀天皇
在位  192年 1月11日〜
    200年 2月 6日
立太子・成務48年(178)3月1日
    即位・仲哀元年(192)1月11日
    崩御・仲哀9年(200)2月6日
・明治政府が神功天皇を天皇から下げてしまったため、天皇のいない期間が約70年ほど出来てしまった。 国家の歴史がこんな事で良いのかと思う。

・卑弥呼は魏志倭人伝に登場する邪馬台国の女王とされている。
卑弥呼は57年に邪馬台国の女王に即位したとされているので200歳程度まで生きた様である。
夫はなく、弟が政治を補佐、239年魏に使者を送り親魏倭王の称号を受ける。
死んだとき奴婢(ぬひ)100余人を順葬したと伝えられる。
賎民は律令制が始まる以前から存在したということである。
・卑弥呼の後、男の王が立ったが国収まらず、13歳の娘「とよ」を王としてやっと国が収まったそうである。
これが現在の歴史には全く記録がないのは大国の外圧によって消されたからである。
2005/08/20

・2006/06/15 午前11時頃、背後に誰かの気配を感じた 。とても清楚な光であった。「ひみこ」と言う方であった。
この方は「日巫女」と言う字を当てるのが本当だったのだと言う。上古の8代様をお祭りしていたそうである。 私のサイトに上古の8代様が姿を現して下さったので参られたのだと言う。
・「ひみこ」は(いつき)であったという。本来の日本の天皇に仕えていたのであると言う。
 後の王が男(中国人)で国が治まるわけもなかった。「ひみこ」は高い世界の方である。
 今も中国人の霊が邪魔に来た。邪魔大国→邪馬台国と成った。 すばらしい方で一緒に死んでしまった者も多かったと言うのは頷ける。
・邪馬台国があったところは、なんと北海道の道東だったと言う。九州や機内ではなく蝦夷だったわけである。 これでは、遺跡など見つかるはずがない。詳細は秘密である。
2006/06/17

・卑弥呼のことは時代が間違っていたようである。卑弥呼は上古の方だったようである。それで日本には記録がないのである。
 上古の時代は日本では文字は使わなかったからである。魏志倭人伝の時代の考察が間違っていたか、故意に間違えたかである。
 日本の歴史を消すためにいろいろなことが仕組まれたのだそうである。
2007年02月13日


仲哀天皇 大国主命

仲哀天皇
 以下は古い記事で修正箇所があります。

日本武尊の第二子で、叔父にあたる成務天皇に皇太子に指名されて即位。皇后は神功皇后。
明治以前は神功皇后を15代天皇と数えていた。 そのため、皇祖皇太神宮と本サイトでは御代が1代ずれている。
 越前角鹿(つぬが)や紀伊国、穴門(山口県豊浦郡)に行幸し、各地に行宮(かりみや)をたてた。筑紫の橿日宮に入った後、群臣を集めて熊襲を討つことをはかっていると、神懸かりした皇后から新羅を討つように勧めたられが、その神託を疑ったために病死したという。

 武内宿禰が仕えた3人目の天皇

本来、このあと15代天皇に神功天皇が祭られていた。

《女王、卑弥呼と神功皇后の類似点》 
卑弥呼(魏志倭人伝) 神功天皇(皇后)(記、紀)
年すでに長大なるも夫婿なし 仲哀天皇と死別
鬼道に事える 神託を受ける、鮎(魚釣り)占い
(※神功皇后が遠征に出かける前、裳の糸を釣り糸にし、飯粒をエサにして占った。「西の方にある新羅をおさえることができるなら川の魚は針にかかるべし」そこでかかった魚が鮎だったという。古来より魚を釣る夢は吉とされる。
管理人柱 鮎はご飯粒を食うのでしょうか?。
中国へ使者を派遣(238)
             (243)
             (247)
●中国へ使者を派遣(413)
   テン皮や人参を献じる
   (これは朝鮮の産物です)
南の狗奴国と戦う。東に倭種の国 難波(一海を渡った東)の忍熊王と戦う。
 (後漢書はこれを狗奴国とみなす)
倭国大乱後、王として共立される 畿内進出。応神天皇の摂政
 (記、紀は忍熊王との戦いを倭国大乱と扱う)
邪馬壱国 邪馬台国
 邪馬台国は30くらいの国を配下にしていたそうです。邪馬台国は連邦のようになっていたのかもしれません。
 日本は日本国ではなかったのです。ひみこは、筆舌に表せないほどすばらしい霊でした。
ひみこは如来界の方なのだそうです。
               
 本来の15代天皇 神功天皇
即位 200年頃?
崩御 269年頃?

出雲朝7代天皇 鳥鳴海の皇后、日名照額田毘道男伊許知邇であった。

 約70年も神功天皇は在位していたわけである。
 これを無き者にしたのは、狂気の廃仏に走った悪霊、明治政府である。

 悪霊、明治政府は出雲朝の存在したことを、絶対世に出したくなかったのである。

その為、悪魔のような憲兵に、文書狩りをさせ、大事な文書を焚書させ、廃仏に走った。

 日本の歴代天皇の多くは僧侶だったことを世に隠すためである。

そこに働いていたのは「伊」、バチカン(ローマ帝国は伊独)の意向である。←新興宗教

イエス・キリストは出雲朝、神倭朝で天皇だったからである。

長州は朝鮮人の祖が多く、明治政府は背後が耶蘇会。キチガイのように軍国に走った。

明治になって暗殺事件も数多く、狂気の時代であった。産めよ増やせよなどと国民に言った政府は、あってはならない政府だった。

 初代内閣総理大臣は誰だったか考えてみると解る。
1885年 山口県出身の伊藤博文は内閣総理大臣になったわけである。そして朝鮮人に殺された。
この時の外相は井上香(イの上=独逸)であった。
そして日独伊防共協定(にちどくいぼうきょうきょうてい)が1937年11月,日本,ドイツ,イタリア3国がローマで調印される。
その前身は1936年11月の日独防共協定で,対コミンテルンの対抗措置を定め,秘密付属協定でソ連を仮想敵国とした。1940年の日独伊三国同盟へ発展。
多くは見えない力で、多数の霊がかっての「お国」の為に働いている。
それで歴史はその思いにそって発生しているのである。

 諸悪の根源、バチカンも、聖マラキの預言では、もう終わっている。
徳川では、織田も豊臣もバチカンのイヌだったのは知っていた。それで比叡山は焼き討ちされたのである。

 その徳川に長い間居たのが大山咋神様を祀った天海上人である。

 明智光秀(→天海上人)は耶蘇会のことを知っていて織田信長を誅殺したのである。
 日名照額田毘道男伊許知邇 俗称 卑弥呼

ヒミコ

 卑弥呼の陵墓はここだったそうです。富山県氷見市の氷見警察近くです。

卑弥呼の陵墓

 富山県に出雲朝の六、七代があったそうです。
その後、誉田別命の時、神代からの世界の中心、前玉に遷都したのです。

 かって関東は、ウガヤ27代 世界王、サルゴン建玉天皇が治めていた地です。
サルゴンがお祀りしていたのが、エンリル神、大山咋神様です。その母神がチグリス川の神、千種媛天皇です。

出雲朝の六、七代

 一般的知識です。

神功皇后

 以下は中国人の捏造です。

  神功皇后(神功天皇)
じんぐうこうごう
仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后。
和風諡号(しごう)は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)。
記紀によると三韓出兵物語の中心人物で,仲哀天皇の急死後,妊娠中でありながら武内宿禰(たけうちのすくね)とともに朝鮮半島に出陣し新羅(しらぎ)を討ち,また百済(くだら)・高句麗(こうくり)をも帰服させ,帰国後応神天皇を産んだという。

その神功天皇から天皇の位を奪う元に成ったのが大日本史(だいにほんし)である。
これは「伊」の息が掛かった歴史書だそうである。
かって(イザナギ、イザナミの話)と同じか?。歴史は繰り返すのである。。
大日本史は水戸藩第2代藩主徳川光圀の下に1657年編纂(へんさん)開始。
1906年完成。本紀・列伝・志・表4部,計397巻226冊からなり,神武天皇から後小松天皇までの歴史を紀伝体で記載。
朱子学の名分論の立場にたち,大友皇子(弘文天皇)の即位を認め,南朝を正統とするなどして尊王論の伸張に寄与し,水戸学を生んだ。史料収集,史籍校訂,考証にもすぐれる。
と凄い評価である。。
               
 015代:     TOP

応神天皇(国忍富、誉田別尊)
在位  270年 1月 1日〜
    310年 2月15日
    誕生・仲哀9年(200)12月14日
    立太子・神功3年(203)1月3日
    即位・応神元年(270)1月1日(70歳)
    崩御・応神41年(310)2月15日(111歳)
    在位期間40年
誉田別命

誉田別命

誉田別命

 出雲朝の8代天皇です。 皇居は埼玉県行田市の下忍神社です。

 誉田別命陵は円墳で、こちらだったそうです。B地点です。
ここで学ぶ人は応神天皇という言葉は使ってはいけません。

誉田別命陵

 拡大します。
罰当たり、下人、石田三成の水攻めで、土は使われたそうです。(怒)

 ハサども、豊臣秀吉、石田三成他、もちろん皆、地獄の底に堕ちています。
カネに目が眩み、古墳を壊した百姓もです。一家死に絶えた家もあります。

誉田別命陵

仲哀天皇の第四皇子で、母は神功皇后。
神功皇后の胎中で新羅に遠征したことから、胎中天皇との別称もある。
新羅遠征の帰路、筑紫で生まれ、神功皇后が異母兄たちを討って皇太子となった。母の没後に即位。
 この応神天皇の御代は、秦氏の祖となった弓月君など、多数の渡来人が渡ってきたとされる。 
武内宿禰が仕えた4人目の天皇

 ご本人は応神天皇と呼ばれるのを嫌がります。誉田別命と呼ぶのが良いそうです。





※ゆづきのきみ 【弓月君】
秦(はた)氏の祖とされる伝説的人物。
日本書紀によると、応神朝に百済(くだら)から民を率いて渡来したという。
ただし、その実在や渡来の年月は確かでない。融通王。
 
               
 016代:     TOP

仁徳天皇
在位  313年 1月 3日〜
    399年 1月16日
誕生・神功57年(257)
即位・仁徳元年(313)1月3日
崩御・仁徳87年(399)1月16日
(143歳)

仁徳天皇
仁徳天皇

 これは絵ではありません。神仏の世界を撮影したものです。
第四回仏典結集を行ったカニシカ王と言われた方です。ササン朝ペルシャの方です。

 ・・カルテイールと言う存在だったそうです。
アフラ・マズダ、建御名方神様に仕えていたのだそうです。
大佐々木尊 カニシカ王 仁徳天皇

 地図です。
大佐々木尊 カニシカ王 仁徳天皇陵となります。出雲朝では14代天日腹大科度美(アメノヒベラオオシナドミ)と言う王です。

大佐々木尊 カニシカ王 仁徳天皇陵

 こちらが皇居でした。

大佐々木尊 カニシカ王 仁徳天皇陵

 以下は古い記事で、多くが戯言です。

応神天皇の第四皇子。異母弟莵道稚郎子が皇太子となった際にその補佐を命ぜられ、皇太子と皇位の譲り合いを繰り返したが、異母兄大山守皇子の反乱で皇太子が自害し、即位した。
 かまどの煙を見て民衆の生活を気遣うなど、仁政を行ったと伝えられている。 
 苦しい庶民のために、3年も税を免除した事があると言う。 天皇は宮中でも質素倹約を旨とし、衣食住に至っても粗末なもので通すように徹底した。民衆に負担をかけてはならんと、宮殿 の垣根も屋根も直さず、屋根は雨漏りがして夜は星が見えたと言う。
この天皇陵の宝を盗んで売った者がいたそうである。首謀者は堺の県令だった者だそうである。
それでアメリカのボストン美術館には古墳出土と伝えられる細線文獣帯鏡や単鳳環頭太刀などが所蔵されているようである。
大阪の役人は腐ったのが多すぎる。
 武内宿禰が仕えた最後の天皇
新羅百済を破り、663年白村の江の戦いで新羅中国の連合軍に破れるまで、日朝関係は大きな問題なかったようである。

 この方は朝鮮中国と交渉し文化を向上させ大和朝廷の最盛期を築いたと言う。
 そして巨大な陵は今も世界最大である。
 それが出来たのは「イ」の血筋の方だからである。中国や朝鮮の者たちが逆らえる筈も無かった。
 イザナギ、イザナミ、イワレヒコ(神武天皇)と「イ」の血筋である。かっては国境は無かったのである。
 神武天皇のかっての住まい駒宮とは高麗宮の事で「伊」の支配下であったとの事である。  
2005/11/07
  
               
 017代:     TOP

履中(りちゅう)天皇
在位  400年 2月 1日〜
    405年 3月15日
立太子・仁徳31年(343)1月15日
即位・履中元年(400)2月1日
崩御・履中6年(405)3月15日
履中天皇 T-17.jpg(39515 byte)


仁徳天皇の崩御後、異母弟の住吉仲皇子と皇位を争い、後の反正天皇で同母弟の多遅比端歯別尊にこれを討たせ、即位した。
 政治上の記録を残すために国史を、財政を整えるために蔵部を諸国に置き、平群、蘇我、物部、葛城の各氏族に国事を執らせたという。

私見であるが、竹内文書の編纂もこの天皇の時代に開始したのである。神代文字を漢字かな混じりに変換開始したのである。
神代文字のままでは現在は全く解らなかったであろう。全てが闇に埋もれていたかもしれない。
何故なら、武内宿禰は仁徳天皇の時、365歳くらいで突如姿を消している。その時の生死さえ定かではないのである。
このような事をしたのは、権力者の見栄や名誉からである。
関わったのは九州に渡来した大陸の中国人や、その影響下にあった大和朝廷である。
九鬼文書(くかみもんじょ)にある様に、神武天皇以前の朝廷(ウガヤ朝73代)は出雲にあったと言われているからである。
一説に依れば、出雲朝は中国から渡来した大和朝の者たちにだまし討ちに遭い、滅ぼされたそうである。
勝てば官軍の世界であるが、記録は庶民に判らぬ様残したのである。
正当な天皇家であった出雲朝の人たちは人を癒す神通力を持ち、高い精神性を持っていたそうである。
当時の天皇家の者は税金は取らず、いんちき信仰宗教のものと違う、ちゃんとした神霊治療(掌療法)が出来たそうである。
このだまし討ちにも中臣氏一派(後の藤原氏)が関わったそうである。
出雲朝の子孫の方が本を出しているが、この本はなかなか手に入らないようである。
何しろ日本で出版できず、アメリカで出版し日本に逆輸入されたのである。
読売新聞に一度タイトルが出ていた。それは「現在の天皇は食人族の子孫である。」と言うものであった。
当時、私は驚いたが、最近(2004年)も別の方から同じようなものが出版されている。
中国では食人は今も一般的である。金を出せば街で人肉が食えるそうである。中国人の末裔なら当然である。
しかし、現在までの天皇の地位は藤原氏をはじめとした権力者に弄ばれ、訳の解らないところも多い。
多くの方が指摘する様に血筋が切れている可能性も大変高い。
これ以上は皆様の判断で思って頂きたい。
もちろん、今の天皇は法律で規定された日本国の象徴である本物の天皇である。
ここに述べてある事は過去の事であるので、考え違いをしないで頂きたい。
 
               
 018代:     TOP

反正(はんぜい)天皇
在位  406年 1月 2日〜
    410年 1月23日
立太子・履中2年(402)1月4日
即位・反正元年(406)1月2日
崩御・反正5年(410)1月23日
仁徳天皇、反正天皇
反正天皇

仁徳天皇の第三皇子で履中天皇の同母弟。
履中天皇が即位前に住吉仲皇子と皇位を争っていた際、兄のために住吉仲皇子を討った功績が認められ、履中天皇の実子をさしおいて皇太子となった。
 即位後の治績はほとんど伝えられていないが、五穀豊穣で太平の世だったことが伝わっている。
               
 019代:     TOP

允恭(いんぎょう)天皇
在位  412年12月

    453年 1月14日

   在位41年
即位・允恭元年(412)12月
崩御・允恭42年(453)1月14日
 本来の日本の紅白に加え、アオイタ公の青と白の垂れ幕を導入する。
この八合神社に縁が深いのは成務天皇。シロイタ公。

青と白の垂れ幕
允恭天皇

允恭天皇

 仁徳天皇の皇子で履中天皇、反正天皇の同母弟。
反正天皇の崩御後、群臣の推挙をうけたが、足が不自由なためにそれを辞退。しかし妃の忍坂大中姫の熱心な請いをうけて即位した。
 氏姓を偽る渡来人が多く混乱していたため、盟神探湯(くがたち)を行ってそれを正したという。
 特にローマ帝国のものが多かったそうである。極東アジアの国に来て異端視されたのかもしれない。
人の出生地は氏姓によって役所で管理されていたからである。それで苗字と言うのである。無論この事は学校では教えない。
大陸から来た者は全て氏姓によってその出身が語られているのである。水平民は朱書してあったと言う。
遠くは地中海沿岸から、シルクロードを経てインド、中国、高句麗、百済、新羅、等々である。これも同和問題の一因に成った。当然である。
同じ国の同じ部族が集まると、当然同和と成る事が多い様である。
当然、周りからは虐げられ、余計に孤立したわけである。私の住む市には小林と言う中国系の同和部落があった。
当然同和で部落になっていた。熊谷には橋本と言うのが同和であった。
熊谷には中国系が多く、関東大震災の時、東京から逃げて行った朝鮮系の人間を皆殺しにした事件もあった。
当時は朝鮮人が東京に火をつけたという噂が広まっていたのだそうである。
新、金、高、池の朝鮮系、林、中のつく中国系、平のつくインド系が代表的な者である。
何故京都が「平安京」だったかと言えば、インド出身の秦氏が土地を提供したからである。
その後京都は沢山の仏教寺院が建立されたのは歴史の事実である。それで深草もある。
中国の秦の始皇帝もインドのシン一族の分派だが、中国を征服するのにユダヤ系の金貸しが協力したそうである。
それで、あれだけのことが出来たのである。
ユダヤ人の祖先も日本の古代の皇室である。皇室の男子にも割礼がある。
世界中で同じような裁判がある。
今の証拠捏造合戦の裁判より良いような気もする。
kugatati_01.jpg(27588 byte)※「くがだち」とは多くの場合は古代の裁判のことをいい、煮立った湯の中に小石を入れ、それを素手で取らせて、やけどの具合で審議を判断するという、ずいぶん無茶なものである。
「日本書紀」には甘樫丘で行われたとありますが、そのふもと豊浦では、そのなごりを伝える飛鳥特有の神事として、今でも行われている。
 場所は豊浦寺のすぐ裏の推古天皇をまつる甘樫坐神社です。神社といっても、境内には畳の大きさの板石が1枚立っているだけで、誰も住んでいないそうである。
 桜の咲く頃、境内の板石の前にしめなわが張られ、その中央にかなり年代ものと思われる湯釜がすえられている。そしてその釜ではすでに「お御湯」がぐらぐら煮えたぎっている。
 争いの当事者に対して各自の主張が正当であることを誓わせて,熱湯のなかの埴土(はにつち)または石を手で探らせ,手が焼けただれると神罰が下ったとして有罪,そうでなければ神が許したものとして無罪とした。事の曲直の断定は,すべて神意によるものとしたところに,盟神探湯の意義があった。

               
 020代:     TOP

安康天皇
在位  453年12月14日〜
    456年 8月 9日
誕生・履中2年(401)
即位・允恭42年(453)12月14日
崩御・安康3年(456)8月9日(56歳)
安康天皇

安康天皇

 本当の陵墓は、ここだったそうです。

KT20P01

KT20P02

 安康天皇様も出家され、僧侶でした。

 安寧天皇様(お釈迦様)、安康天皇様、安閑天皇様と、「安」が付くのは、皆、日本ーインド(=ヒエ)の方で僧侶です。

 以下は中国人の嘘です。

允恭天皇の第三皇子。允恭天皇の崩御後、同母兄の木梨軽皇子が皇太子に立てられたが、同母妹と近親相姦の罪を犯したため、これを討って即位した。
 大日下王を殺害し、その妻を奪って自らの皇后としたが、大日下王の遺児、眉輪王(まゆわ)に寝首をかかれて没した
               
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 021代 : 雄略天皇
在位  456年11月13日〜
    479年 8月 7日
誕生・允恭7年(418)12月
即位・安康3年(456)11月13日
崩御・雄略23年(479)8月7日(62歳)
金錯銘鉄剣

 国宝ですが、これは雄略朝に居た、北魏の職人製です。その当時の漢字です。

  この時の朝廷では、現在、神代文字と言っているものを使っていたからです。

 雄略天皇も朱線内のものを使っていたそうです。

神代文字
雄略天皇

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雄略天皇

T-21

皇居跡

 以下は古い記事で、誤りがあります。
平成25年05月30日

允恭天皇の第五皇子で安康天皇の同母弟。
安康天皇が眉輪王に殺害された後、眉輪王をそそのかした黒幕ではないとかと疑って兄の境黒彦皇子、八釣白彦皇子を殺害。
安康天皇に後継として指名されていた従兄弟の市辺押磐皇子を狩りに連れ出して射殺するなど、その激しやすい性格から「大悪天皇」と誹謗されていたことが伝えられている。
埼玉県行田市埼玉(さきたま)稲荷山古墳から出た鉄剣銘にある「わかたける大王」も雄略天皇と考えられていたが、これは日本武尊だったそうである。12代景行天皇のところを見てください。
2005/06/12
更新2006/06/07
日記を書こうとしていたら、21代様が参られました。
この方は北欧にいたのだそうです。信じられるでしょうか?
やはりフリーメーソン(特権階級)でした。それで何処にも好きな国に行き来が出来たのです。
皇室の血筋にそのような方がいたのは清寧天皇が生まれながらに白髪だったのを見ても解ります。
皇室は実は開かれていた様です。
世界中から婦人も来ていた様です。
元々は日本が世界中に人を派遣していたのだそうですから当然とも言えます。
雄略天皇が秘密裏にかっての古文書を漢字かな混じりに編集を始めたと言う方もいる。
それは勿論、当時の超大国ローマの圧力があったからである。
日本の歴史の真実が消えると思ったからである。
ローマ帝国は全ての日本の歴史、宗教まで変えようとしていたのである。
何時の時代も軍事大国のやる事はいっしょである。
               
 022代:     TOP

清寧天皇
在位  480年 1月15日〜
    484年 1月16日
清寧天皇

赤城神社

 陵墓は神社の裏だそうです。

清寧天皇陵

 六千円の六は神武天皇のことなのだそうです。
神武天皇も倭の方、胎蔵界の方です。宮崎の人ではありません。

赤城神社の秘密

清寧天皇

 赤城神社からは沢山の土器が出ています。


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雄略天皇の第三皇子で、生まれながらに白髪だったと伝えられている。
皇后、御子ともに無かったため、御名代として諸国に白髪部を定め、父帝雄略天皇が射殺した市辺押磐皇子の子、億計(仁賢天皇)と弘計(顕宗天皇)の二王を迎え入れて、これを後継者とした。
               
 023代:     TOP

顕宗天皇
在位  485年 1月 1日〜
    487年 4月25日
顕宗天皇

顕宗天皇
 以下は古い記事で、誤りがあります。
平成25年05月27日


履中天皇の第一皇子、市辺押磐の子。父市辺押磐が雄略天皇に殺害された後、同母兄の億計(仁賢天皇)とともに播磨縮見屯倉に身を寄せていたが、清寧天皇に遣わされた久米部小楯に発見され、後継者のいなかった清寧天皇の後継ぎとして迎えられた。
 清寧天皇の没後、兄の億計と皇位を譲り合ったが、二人を発見した小楯に履中の後裔であることを明かしたのが弟弘計だったので、その功を兄に説得されて即位した。
               
 024代:     TOP

仁賢天皇
在位  488年 1月 5日〜
    498年 8月 8日
 屯倉とは「みやけ」です。大和政権の直轄領から収穫した稲米を蓄積する倉。「み」は接頭辞。
 平成22年04月29日(昭和の日) 仁賢天皇と名乗る方が、ご挨拶に来てくださいました。私のサイトにお慶びを頂きました。→「コン」

仁賢天皇

600

仁賢天皇

 父はワカタケル大王、神倭朝21代 雄略天皇だったそうです。
23代 顕宗天皇が重ねて践祚されたそうです。

 以下は古い記事で、誤りがあります。
平成25年05月27日


履中天皇の第一皇子、市辺押磐の子。父市辺押磐が雄略天皇に殺害された後、同母弟の弘計(顕宗天皇)とともに播磨縮見屯倉に身を寄せていたが、清寧天皇に遣わされた久米部小楯に発見され、後継者のいなかった清寧天皇の後継ぎとして迎えられ、皇太子に立てられた。
 清寧天皇の没後、二人を発見した小楯に履中の後裔であることを明かしたのが弟の弘計だったので、その功を説得して皇位を譲り、その顕宗天皇が没した後、顕宗に跡継ぎがなかったので即位した。

2005年12月07日
大臣、大連の違いについて教えていただいた。
多くの方が全く解らなかったと思う。
大臣は初代が竹内宿禰で、これは北欧の者を祖としているそうである。
大連は出身が中東から中国に掛けての者である。との事である。
近江(大湖)、大臣(大海)、「おーみ」と音が近いので信憑性があるかもしれない。

琵琶湖と格好が似ているかもしれない。
現実に黒髪で無い天皇もいたのだから、かっての天皇家の間口は広かったと認めざるを得ない。
皆さんの髪にも縮れ毛がたいていあると思う。。
この方は高い世界(金星霊界の第五レベル)にいる方である。
因みに、本サイトは神霊サイトではありません。。
まじめに、文献にとらわれず、真実の日本の歴史を研究しています。
               
 025代:     TOP

武烈天皇
在位  498年12月

    506年12月 8日
武烈天皇

 仁賢天皇には子はいなかったそうです。


 悪霊武烈の居住地はここだったそうです。
朝鮮人なので、墓は朝鮮です。天皇を語られ、良き天皇様は鬱陶しいそうです。

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 以下は虚偽です。
  仁賢天皇の皇子。物部の娘影姫をめぐって、大臣の平群真鳥(へぐりのまとり)鮪(しび)親子と争い、大連の大伴金村と謀ってこれを討ち、即位した。
 影姫は平群鮪の妻(もしくは恋人)だったそうである。これに怒って、その晩に大伴金村に数千の兵を集めさせ、討ったと言う。
  ※平群真鳥の周りの者九人ほどを殺した様である。残虐非道な者である。もちろん欲ボケ王とその取り巻きの見本の様である。 刑理を好み、厳格にこれを適用して酷刑を科す一方、自らは諸悪の限りを尽くして、人々に怖れられたという。
 後継がなく、応神天皇の五世孫にあたる継体天皇の即位を正当化するため、『日本書紀』編纂の際に極悪人に仕立てられたという説もある。
 寝所で暗殺されたと言う。その後は大伴金村が権力を握る。
 魔界の者である。