八幡山古墳

ここも大事な遺跡です。

夾紵棺 (きょうちょかん) の発見 
 
江戸時代には既に石室に入る穴があいていたようで、盗掘などにもあっていたと思われますが、昭和10年に発掘調査
を行った際、奥室から銅鋺、幹漆器の細片、直刀の破片などが出土しました。
また、傷みのひどい石室を修復するために昭和52年から2年間かけて行われた工事の際には、中室の床石の下から 
夾紵棺 (きょうちょかん) の破片が見つかりました。 
 


夾紵棺 とは、遺体を納めるヒツギの中でも最高級のもので、全国でも奈良県を中心に数件しかなく、被葬者はいずれも
皇族関係者です。
 
夾紵棺とは?

粘土などで棺の型を作って、これに漆と布を交互に何回も塗り固めていくもので、奈良県の牽牛子塚古墳 (けごしづかこ
ふん) の棺は麻布を36枚塗り重ねていました。ここ八幡山古墳の夾紵棺は絹布を塗り固めたものと確認されています。
他の墳墓では、聖徳太子廟、天武・持統天皇陵、阿武山古墳などで出土しています。いずれも身分の高い人たちの古
墳です。 


物部連兄麻呂 (もののべのむらじえまろ) 
 
「聖徳太子伝暦」に、 物部連兄麻呂 (もののべのむらじえまろ) という人物が、武蔵国造 (むさしのくにのみやつこ) 
に、癸巳年(633年)任じられ、のちに小仁の位を賜ったことが記されています。
大徳、小徳、大仁に次ぐ高い冠位でした。埼玉の地で大変な仕事をしたからです。

兄麻呂は聖徳太子の舎人として活躍した人物で、仏教にひかれて身を慎み、後に在俗の信者となって太子に仕えまし
た。
この八幡山古墳が兄麻呂の墓であるともいわれています。古墳の築造年代が兄麻呂に合うこと、そして出土品の中に
仏教的な銅鋺が見つかっている事などが根拠になっています。
埼玉と聖徳太子のつながりを示す重要な八幡山古墳です。 
 
管理人の独り言

こちらの方は23歳で百済から参られたそうです。お傍に立派なお狐さんがついています。
百済から622年に五人で仏教伝来のために来た様です。話はあっていると思います。
622年と言うのは聖徳太子の亡くなったとされる年です。聖徳太子は神代の地の証拠である古代蓮の花を隠滅する
事を苦慮していたのです。
 それで太子亡き後十年を経て、朝廷の意を受け、任を帯びた物部連兄麻呂が埼玉の地に着たのです。
この時は太子が全国の豪族から歴史書を回収し焚書した後です。神代の証拠は古代蓮の花だけだったと思われて
いたのです。

 文字通り埼玉は日本の歴史の中心ともなる地だったのです。そして、近年になり古代蓮は奇跡的に復活したので
す。
 埼玉は日本の地図を見ても関東平野の中央で利根川、荒川の水利も良く、正に国の中心たるに最適な場所です。
中国から来た中島が、この地を欲しがったのは当然だったのです。
 その中島は笠原と大和朝廷の連合軍に滅ぼされ、近くに関東最大の同和地区の南河原村が出来たわけです。
 熊谷、太田にも大阪を経て入植して来た中国人の末裔が沢山います。
 これがかっての県境となったわけです。埼玉北部と群馬の人が比較的相性が良いのはこの性もあります。
 同和地区と成ってしまったところは気の毒ですが、兵隊がいたのかもしれません。平家でさえ落人は大変でした。戦
争は止めましょう。

八幡様と稲荷神社もとても大切な関係です。埼玉古墳にも稲荷神社がありました。この様な史実を無視しないでいた
だきたいものです。

勿論聖徳太子と戦争した物部氏とは関係ないそうです。物部氏は神道擁護でした。
物部とは警察、軍事に関係した氏だったのです。
大国の脅威から日本を守るために、やむなく埼玉に赴任し日本の真の歴史を隠したのです。
何時でも大国は横暴なのです。
2005/07/29
更新2005/08/02
八幡山古墳は元はちゃんと泥を被った山だったそうです。
百済式の石室だそうです。エジプトのピラミッドが有名ですが、元元は日本のものです。
土地によって泥がなかったりで、エジプトは石だけで造ったのです。
石の無かったところも勿論あります。ピラミッドと言われる山は沢山あります。
ここの山の泥は堀を埋めるのに使ってしまったそうです。

↑3体のお狐さんがおります。
百済は良い国だったそうです。
悪かったのは新羅だそうです。歴史の通りです。
こちらのお社がお住まいだそう
です。
赤枠の神社です。


img001.jpg(60973 byte) 火祭り会場





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