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最終更新日  平成24年01月14日
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 菅原道真公の父は土師氏でした。埼玉県鴻巣市の窯で埴輪を焼いていたのです。
その埴輪は千葉に出荷されました。

 その窯場周辺の様子と菅原道真公の父上、ウガヤ朝の天皇と言われる方、神々の様子です。

amateru0622

 父上はシチリアンで、現在の千葉県市原二俣に住んでいたのです。

市原

 菅公の御先祖様はシチリアンです。太田道灌の祖と親戚だったそうです。
太田道灌の父が太田道真と名乗ったのは、これも理由です。

 共にローマ帝国の役人だったのです。

シチリアン
真の故郷  湯島天神


以下は朝廷が東国に在ったのを知らなかった平成24年以前の記録です。多くは戯言でした。

【菅原道真公】略歴
(845-903) 平安前期の学者・政治家。是善の子。
菅公(かんこう)・菅丞相(しようじよう)と称される。
宇多・醍醐両天皇に重用され、文章博士・蔵人頭などを歴任、右大臣に至る。
この間894年遣唐大使に任命されたが建議して廃止。
901年藤原時平の讒訴(ざんそ)で大宰権帥に左遷、翌々年配所で没した。
性謹厳にして至誠、漢詩・和歌・書をよくし、没後学問の神、天満天神としてまつられた。
類聚国史」を編し、「三代実録」の編纂(へんさん)参与。詩文集「菅家文草」「菅家後集」
※るいじゅこくし 【類聚国史】
平安前期の歴史書。二〇〇巻、目録二巻、帝王系図三巻。現存は六一巻。
菅原道真編。寛平四年(八九二)成立。
六国史(りつこくし)の記事を神祇(じんぎ)・帝王・歳時・音楽などに分類し、年代順に編集したもの。


天神様と牛天神と牛の歴史的な関係は古くから深い物があります。
道真は、承和12年 (845)6月25日京都の菅原院で誕生。
この日が、乙丑であり、死去の延喜3年(903)2月25日の日であった。
また、道真公の遺言として轜車(じしゃ)を「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」とあり、その場所を墓所と定めた。

人にひかせず牛の行くところにとどめよ

ここが大宰府の天満宮と言われています。
その場所が、都府楼の北東(丑寅)の方であったなどの多くの牛との関わり伝承があり、天神信仰には牛がつきものとなり、「神のみつかわしめ」としてのつながりを持つようになったそうです。



※年の数え方によって年齢等、1歳以上違う事があります。ご了承ください。変換間違いもたまにあります。注意してください
ちょっと詳細
菅原道真(すがわらのみちざね・845〜903年)

学問に秀でた菅原一門の菅原是喜(すがはらこれよし)34歳の子、母は伴氏(御母伴氏は神代以来の名門大伴家)。
京都の菅原院に生まれた。
生誕の地は、京都市上京区烏丸下立売の菅原院天満宮の社地とされているが正確には不明。
   
菅原氏は、古代豪族の土師氏(菅原氏は土師(はじ)氏の流れをくむ。土師氏は、陵墓の造営や埴輪(はにわ)の製作に従事する氏族であった。)の出身で、道真公の曾祖父古人公が、土師を菅原と改姓するとともに、文道をもって朝廷に仕える家柄となった。

父菅原是喜の身分は祖父清公(きよきみ)公から続く学者の最高位である文章博士(もんじょうはかせ)であった。
祖父は遣唐判官として渡唐、弘仁9年(818)に儀式・衣服を唐風に改めることを提案した

平安前期の公卿・学者・政治家。従二位。右大臣。(生前)

菅原道真の没後、怒りを静めるため朝廷は

923年4月20日 従二位大宰権帥から右大臣に復し、正二位を贈る
993年5月20日(6月26日?) 左大臣正一位を贈る
993年閏10月20日 太政大臣を贈る
承和12(845) 1歳 仁明天皇の時代。6月25日 菅原道真 誕生(1歳)
斉衡2(855) 文徳天皇の時代。道真、初めて詩を詠む(11歳)
貞観元年(858) 15歳 元服
貞観 4年(862) 19歳 文章生(定員20名)。同九年正月、文章得業生。
貞観 9年(867) 24歳 文章得業生(文章生の中より才学抜群の者2名)
貞観13年(871) 28歳 菅原道真は、当時の最高の国家試験である方略試(ほうりゃくし)に合格する。(中上の成績で及第)
位階は、正六位上となった。
令(りょう)によると、位階は30階存在した。
一位から八位までを正と従に分け、さらに、正四位から従八位までは上と下に分け、その下に、大初位上・大初位下・少初位上・少初位下を置いた。三位以上の貴族は公卿(くぎょう)と呼ばれた。

また、四位・五位の貴族や六位の蔵人(くろうど)は、殿上人(てんじょうびと)と呼ばれた。官職は、この位階に基づいて決められるていた。これを、官位相当の制という.
貞観14年(872) 29歳 玄蕃助、少内記を経て、存問渤海使を拝命。
貞観16年(874) 31歳 従五位下
貞観19年(877) 34歳 式部少輔に任ぜられる。同年改元(元慶元年)文章博士を兼務。
元慶 3年(879) 36歳 1月 従五位上に叙さる。
父是善従三位に叙さる 。
11月 藤原基経ら『文徳実録』を撰進す、道真その序を草す。
元慶 4年(880) 37歳 父・是善没。
元慶八年(884) 太政大臣の職掌の有無について下問され、職掌無しとの意見書を提出。

太政大臣藤原基経に国政を委ねようとしていた光孝天皇の不興を買ったという。
この事件の影響に学界の嫉視も重なって、仁和二年(886)正月、文章博士・式部少輔を解任され、讃岐守に左遷される。

赴任中、阿衡の議が起こったのを機に急遽帰京し、橘朝臣広相を擁護する意見書を基経に提出した。
あこう-じけん ―かう― 【阿衡事件】
887年 宇多天皇即位の際に藤原基経を関白に任じた勅書に「阿衡(摂政・関白の異名)の任をもって卿(律令制で、八省の長官)の任となすべし」とあったため、 基経は阿衡とは位のみで職掌(担当する役目・仕事。)を伴わない空名であるとして政務をみず、半年後、天皇が譲歩し勅書を改めた事件。
阿衡の紛議。

【藤原基経】
(836-891) 平安前期の廷臣。通称、堀河太政大臣。諡号(しごう)昭宣公。
叔父良房の養子となって宗家を継ぎ、陽成天皇の摂政。
のち天皇を廃して光孝天皇(830-887) 第五八代天皇(在位 884-887)をたて、光孝天皇死後、宇多天皇を擁して最初の関白となった。
「文徳実録」を撰修。
陽成天皇
(868-949) 第五七代天皇(在位 876-884)。
名は貞明(さだあきら)。清和天皇第一皇子。
九歳で即位。関白藤原基経によって廃位させられた。(あまりに凶暴で17歳で人を殺したとの事。)
関白は成人後の天皇を助けて政務をつかさどった重職。
関白は、天子の政務に関(あずか)り白(もう)すの義で、平安中期、藤原基経をこの任にあてたのに始まる。
次第にその職名となり、天皇が幼少の時は摂政、成人後は関白を任ずる慣例となった。
藤原氏がその地位を独占し、例外は豊臣秀吉・秀次の二人のみ。

あこう ―かう 1 【▼阿衡】
〔書経(太甲上)〕摂政・関白の異名。
〔「阿」は「よりかかる」、「衡」は「はかり」の意。王がこれによって公正を得る意。
殷(いん)の大臣伊尹(いいん)の任じられた官名〕

だいじょうだいじん だいじやう― 5 【▽太政大臣】
(1)律令制で、太政官を総括する官職。左右大臣の上位に位置するが、適任者がなければ欠官とされた (則闕官(そつけつのかん))。
職掌も定められておらず名誉職としての色彩が濃く、関白・摂政・内覧などの宣旨を伴わないかぎり実権はないものとされた。
おおいまつりごとのつかさ。大相
仁和 2年(886) 42歳 讃岐守となり任地に着く。道真42才
寛平 2年(890) 48歳 帰京。病気療養に努める。
以後は 宇多天皇の信任を得、順調に昇進。 蔵人頭・式部少輔・左京大夫などを歴任し、同三年、参議に就任。左大弁・春宮亮などを兼任した。
宇多天皇
867-931 第59代天皇(位887-897) 光孝天皇の第7皇子。母は班子女王。
887年、藤原基経の推薦で即位し、阿衡(あこう)事件を起こしたが、基経の死後は関白を置かず、 菅原道真を抜擢するなど、藤原摂関政治の中にあって政治の刷新に努力。
その治世は後世寛平の治と言われた。
譲位の際醍醐天皇に与えられた「寛平御遺誡」は有名。後、出家して法皇となり、仁和寺に移った。
日記に「宇多天皇御記」がある。墓は京都大内山陵。

藤原氏の専横とは

藤原芳房(804-72)、基経(836-91)がそれぞれ人臣最初の摂政・関白となり他氏を圧倒、専制体制を固めていた事である。
任名3年(887)即位した宇田天皇(887-897)は、この流れを変えようと道真を重用した。
そして、その後醍醐天皇(897-930)の時代に右大臣を任命されたのである。(899)
寛平 4年(892) 50歳 『類聚国史』を編纂。
寛平 5年(893) 51歳 「新撰万葉集」を編纂、0893/11/07、寛平5/09/25
寛平 6年(894) 52歳 894年道真は遣唐使に任命されたが、唐の疲弊などを理由に遣唐使停止の議を上奏、結果遣唐使は廃止されるに至った。

同年十月、中納言。同九年六月、権大納言兼右大将。同年七月、宇多天皇は敦仁親王に譲位して醍醐天皇の御代となる。

この時宇多は奏請・宣行はすべて藤原時平と道真の二人に諮るよう新天皇に命じた。
寛平 9年(897) 55歳 藤原時平、大納言・左大将。道真、権大納言・右大将。
昌泰二年(899) 56歳 二月、時平の左大臣昇格に伴い右大臣に就任。翌年、三善清行より辞職の勧告を受ける。
三善清行 847-918
平安前期の漢学者。善相公とも言われた。
巨勢文雄に学び、900年、文章博士兼大学頭となった。
詩文に巧みであった他、明法、算道にも明るく、905年以来、藤原時平と共に『延喜格式』の編集に参加。
『円珍伝』『藤原保則伝』『善家秘伝』など著書も多い。
914年醍醐天皇に「意見封事12か条」を奏上したことは有名。
900年、道真に辞職勧告の書を提出している。
昌泰 3年(900) 57歳 三善清行より辞職の勧告を受ける。
重陽の宴に侍して「秋思」の題の勅命に応え詠んだ詩。

           丞相度年幾楽思 (じょうしょう年を渡りて幾たびか楽しび思へる)
           今宵触物自然悲 (今宵は物に触れて自然(おのずから)らに悲しむ)
           声寒絡緯風吹処 (声寒ゆる絡緯は風の吹くところ)
           葉落梧桐雨打時 (葉の落ちる梧桐は雨の打つ時)
           君富春秋臣漸老 (君は春秋に富み臣は漸くに老いたり)
           恩無涯岸報猶遅 (恩は涯岸無くして報いむことはなほし遲し)
           不知此意何安慰 (知らずこの意何れにか安慰せむ)
           飲酒聴琴又詠詩 (酒を飲み琴を聴き又詩を詠ぜむ)
昌泰 4年(901) 58歳 正月25日。左大臣藤原時平のざん訴により突如として大宰権帥に左遷される。

道真が正月8日に従二位に叙せられた同じ月の25日に、時平らの讒言により勅使大納言清貫紅梅殿において宣命が下された。

 突如の左遷を嘆いて「流れゆく 我はみくづとなりぬとも 君しがらみとなりてとどめよ」という和歌を宇多天皇に献ったが、すでに醍醐天皇に位を譲っており、宇多天皇は御所に駆けつけたが中にも入れず、座り込んで抗議するしかなかった。

 道真左遷後は、時平が実権を握り、全国で土地調査をし、さまざまな改革をして成功するが、これらの政策は道真の企てた道筋であった。

藤原時平
871-909 関白藤原基経の子。左大臣正二位。菅原道真を廃して太宰の権帥に左遷し、藤原氏の地位を確立した。
902年、最初の荘園整理令を発し、12年1班の班田収受制を施行するなど律令制の維持に努力した。「日本三代実録」「延喜式」の作成撰修に参画。
909年、39歳の若さで病死(悩死)した事は道真の祟りと言われた。
延喜元年(901) 58歳 2月1日京を発ちて太宰府に下向す。
道真が、自邸を去るときに詠んだ歌

          「東風吹かば匂いおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな」
         
          三代勅撰和歌集の一つ『拾遺集』によまれている。
          『大鏡』では、第五句を「春な忘れそ」あとある。
          「九月十日」(仲秋の日配所で詠んだ漢詩)
         
          去年今夜侍清涼(去にし年の今夜 清涼に侍りき)
          秋思詩編独断腸(秋の思ひの詩編 独り腸を断つ)
          恩師御衣今在此(恩師の御衣は今此に在り)
          捧持毎日拝余香(捧持ちて日毎に余香を拝す)
延喜 3年(903) 60歳 2月25日薨去



讒訴から祟りの経緯


道真は時平より26歳年上で、道真は宇多上皇と醍醐両天皇の信望厚く、天下の政治を専決すべき密詔をいただいた。

道真は固辞したが、時平らは妬んで、道真が醍醐天皇に代わって女婿斉世親王(宇多上皇の皇子)を擁立しようとしていると偽って奏上した。

時平は芝居気たっぷりの魅力的で世才・権謀術にたけた政治家だったそうである。

没後、菅公は怒りの神様、雷様になって時平を苦しめたという。「道賢上人冥土記」参照。

道真の死後まもなく怨霊のうわさが囁かれ始め、疫病が蔓延し、雷雨が頻繁に起こったのだそうである。

延喜8年(908)に藤原菅根が病死し、その翌年に時平が39歳で悩死した。

延喜12年には紀長谷雄、その翌年源光が死んでいる。
その後各地で洪水の被害が出て、京に隕石が降るという事態まで起こった。

また延喜10年に入ると旱魃と台風のダブルパンチで道真の祟りにちがいないと大騒ぎになった。
ついで延喜23年(923)、右大弁公忠が病気でもないのに急死し、三日後に蘇生して、次の様に語った。

「醍醐天皇は時平の言を用いて罪なき臣を流罪にした誤りは重大であるゆえ、冥府の札に記して阿鼻地獄へ連行されるべき」と奏上する衣冠正しき者がおり、冥官らが「もし、年号を改めて過(とが)を謝するという道があれば、これはどうか」と合議しているところで目が覚めよみがえったのだ。

といったものだから、これを聞いた天皇は驚き、ただちに年号を延長と改元し、道真の流罪の宣旨を焼却して復官させ正ニ位を追贈した。

 ところが、この年、時平の女仁喜子の婿で皇太子の保明親王が早世し、前後して時平の女で宇多天皇の女御であった褒子も急逝した。さらに保明親王のあとに立太子した三歳の慶頼王も、3年後の延長3年(925)6月に亡くなった。道真の死後20年を経ておこったこの事件は道真の怨みと憤りの実在を人々に確信させたのである。
 
 5年後の延長8年(930)清涼殿に落雷があり、大納言清貫、右近衛の舎人忠包(ただかね)が焼死、右大弁希世(まれよ)は雷にうたれ、紀蔭連(かげつら)も煙にまかれて死に、さらに6年後の承平6年(936)に時平二男、八条大将保忠が急死、天慶6年(943)時平三男、敦忠も早世と延々と祟りは続く
 
紀長谷雄 845-912
平安時代前期の漢学者。早くに文章生となり、890年、図書頭を経て文章博士、大学頭となる。後に従三位中納言に登った。菅原道真にその才能を買われ、道真の建議で廃止された最後の遣唐使には副使に名を連ねていた。895年、道真と共に渤海客使を饗応。『延喜格式』の編纂にもあたり、漢詩文集に『紀家集』がある。

延長8年(930)6月には宮中の紫宸殿に落雷があり、多数の死者を出した。

その中には上述の通り藤原清貫(きよつら)が含まれていた。

そのためか約3ヶ月後、9月には醍醐天皇も心労からか46歳で死んでしまったのである。

それでも祟りは全く収まらなかったわけである・・


整理すると以下の様である。祟りは15名ほどに及んでいると思われる。

 
延喜8年(908) 藤原菅根(856年〜908年10月7日)が病死 (中心人物:平安前・中期の公卿、学者。良尚の子、母は菅野高年の娘。
文章生から対策に及第し、昌泰二年(899)文章博士、同三年蔵人頭。
延喜元年菅原道真左遷に際し宇多上皇の意向を遮ったとして一時大宰大弐に左降。
同八年参議。醍醐天皇侍読として従三位を贈られる。)
延喜9年(909) 39歳 藤原時平が悩死
延喜12年(912) 紀長谷雄死去(道真左遷を阻止し様とした宇多上皇を邪魔した者)
延喜13年 源光死去。(首謀者、道真の後右大臣に成った。)
延喜19年(919) 藤原仲平の奉行により太宰府天満宮の社殿を造営す。
延喜23年(923) 右大弁公忠が病気でもないのに急死し、三日後に蘇生して、次の様に語った。

「醍醐天皇は時平の言を用いて罪なき臣を流罪にした誤りは重大であるゆえ、冥府の札に記して阿鼻地獄へ連行されるべき」と奏上する衣冠正しき者がおり、冥官らが「もし、年号を改めて過(とが)を謝するという道があれば、これはどうか」と合議しているところで目が覚めよみがえったのだ。

といったものだから、これを聞いた天皇は驚き、ただちに年号を延長と改元し、道真の流罪の宣旨を焼却して復官させ正ニ位を追贈した。
※しかし、その7年後醍醐天皇も46歳の若さで死んでしまう。
時平の女仁喜子の婿で皇太子の保明親王が早世し、前後して時平の女で宇多天皇の女御(にょうご、高位の女官→やがて皇后?)であった褒子も急逝
延長8年(930) 清涼殿(紫宸殿)に落雷があり、大納言清貫(きよつら)、右近衛の舎人忠包(ただかね)が焼死、 右大弁希世(まれよ)は雷にうたれ、紀蔭連(かげつら)も煙にまかれて死去。
9月には醍醐天皇も心労から46歳で死去。
承平6年(936) 時平二男、八条大将保忠が急死
天慶6年(943) 天慶6年(943)時平三男、敦忠も早世
道賢上人冥土記 道賢(905-85)と言う山岳修行者の体験記。
熊野金峯山で修行中に息絶えた道賢は冥界で魔王の道真と出会ったそうである。
魔王は太政威徳天と名乗り、道真であると語ったそうである。
あらゆる疾病、災厄を司る者であると言い、日本を滅ぼすつもりだったと言う。
ところが、仏や菩薩に諭され、あるところで祟りをやめたのだそうである。

しかし、その眷族たちは各地で災厄を起こしていると語ったそうである。

その後、道顕は蔵王権現(金峯山(きんぶせん)の神)に地獄に案内された。
そこで道顕は道真を死に追いやった醍醐天皇と3人の廷臣が業火の責め苦にあえいでいる様を見せられたそうである。
その後道顕は一命を取り留め、蘇生し、話しを広めるのである。

※金峯山(きんぽうさん)は山形県鶴岡である。蔵王権現と言う名称から勘違いしやすい。

kitano.jpg(5156 byte)その後天慶5年(942)に京都の右京に住む多治比文子(たじひのあやこ)と言う女性に託宣が下る。
これが北野天満宮の始まりだそうである。



菅公は漢詩や和歌・書に秀でていたので、学問の神様、天満天神様として、全国各地に祭られ、広く民衆に信仰されるようになった。

 ご降臨された天神様、菅原道真公。
平成23年12月13日 鴻巣市天神町にて

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 菅公と縁が深い騎西の玉敷神社です。この道を行ったところです。
当日のことは日記をご覧ください。

騎西の玉敷神社

 菅原道真公、多治比氏の乗った円盤です。お地蔵様、天狗さん、眷属の皆さんです。

騎西の玉敷神社
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