陰陽師(おんみょうじ) 安 倍 晴 明


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                             ↑式神 5 

※安倍晴明の名はいろいろな漢字を当てているが、ここでは「安倍晴明」を正式なものとして採用する。

 こちらが安倍晴明です。

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説 明



安部清明
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陰陽師とは、いかなる存在か?

平安時代の天才陰陽師として名高い、安倍晴明


一体「陰陽師」とは、いかなる存在なのでしょうか?

陰陽師には、二面性があるとされます。

一つは中国伝来の陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)によって天体を観測したり暦を作成する科学者的側面。

「陰陽五行説」とは中国に起源した哲理である。「一切の万物は陰陽2気によって生じる。」としたものである。
五行中、木と火は陽
金、水は陰に属し
土は中間にある。
とした。その象徴により天地の変異、災祥、人事の吉兆、凶兆を説明する。
五行を万物組成の元素とし、五行は相生とする。
五行相生とは木から火を、火から土を、土から金を、金から水を、水から木を生ずる事を言う。
五行相剋とは木は土に、土は水に、水は火に、火は金に、金は木に剋つ事を言う。

陰陽五行説が日本に伝来したのは513年(継体7年)、百済から五経博士の段楊爾が「五経」のひとつ「易経」をもた らし、日本人に教えたとの事である。
五経博士は二回日本に来ている。
そして、これを完全にマスターしたのが第40代の天武天皇(在位673-686)、聖徳太子(574-622)、蘇我稲目(?-570)らだそうである。


聖徳太子は用命天皇の皇子である。推古天皇の即位とともに皇太子となり、593年には摂政に成っている。
深く仏教に帰依し、603年に冠位12階、翌年17条の憲法制定。
607年に小野妹子を隋に送って大陸文化を積極的に取り入れた。
これには五経博士の来日も深く関係していると思われる。
法隆寺、四天王寺等多数の寺院を建立「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」を著す。 太子の著した世間虚仮(こけ)とは、五行から顕われている。
目(肉眼)に見えるものは全て幻であると言う。これが「世間虚仮」である。世間とは天地の間の事である。

五行は蘇我稲目がもっとも早く学んだ様である。物部尾輿(もののべのおこし)と対立し崇仏を唱え、仏像を向原(むくはら)の家に安置し向原寺と称したとの事である。
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物部尾輿の子守屋(-587)は仏教を排斥し蘇我氏と争う。塔を壊し仏像を焼く。 用命天皇の没後、穴穂部皇子を奉じて兵を挙げたが、蘇我氏のために滅ぼされた。

武内宿禰(たけのうちすくね)を祖とすると言われる蘇我氏である。簡単な系図を示す。
※武内宿禰は広辞苑では<たけうち-の-すくね>で調べないと出てこない。

武内宿禰は8代孝元天皇の曾孫(一説に孫)と言われ、360年以上を生き、姿を消したと言われる。
300年以上の間に景行成務仲哀応神仁徳 の5朝に仕え、偉功があったとされる。
その偉功は私には現在不明である。どのようなことだったのか?
その子孫に葛城(かつらぎ)巨勢(こせ)平群(へぐり)、紀、蘇我の諸氏がある。
その中に蘇我氏がある。
石川宿禰の子と称し、大和国高市(たけち)郡の蘇我を本拠とした。大和朝廷の財政外交を掌握し、大陸文化の移入に努めた
大化の改新で主流(蘇我蝦夷、入鹿)は滅亡、傍系が、その後(7世紀より)石川朝臣として存続。
武内宿禰→→平群真鳥(孫、大臣(おおおみ))→→→蘇我の稲目(?-570 宣化、欣明両朝の大臣)→蘇我馬子(?-626 敏達天皇以下4朝の大臣、仏法興隆に尽力、物部守屋を討滅、崇峻(すしゅん)天皇(在位587-592)を暗殺)→蘇我蝦夷(?-645)→蘇我入鹿(?-645)
                             →蘇我石川麻呂(?-649)←蘇我馬子の孫(大化の改新で中臣(藤原)鎌足らと蘇我入鹿を誅し右大臣にまで登るが、その後讒により自刃。)
中臣鎌足は蘇我入鹿を討つのに成功して藤原の姓を頂く事に成る。
その後令制で陰陽寮(中務省に属した)が設けられ、典楽寮に所属する呪言師たちが天文占い、呪い、治療などをしているそうである。


そしてもう一つは、式盤を使って吉凶を占ったり、自在に式神(陰陽師の意のままに動く鬼神)を自由に操る呪術師的な側面です。








一条戻橋

「あの世」と「この世」をつなぐとされた、一条戻橋。

京都・一条通りを横切って流れる、堀川の上にかかるこの橋。伝説では、晴明の父の保名が蘆屋道満(あしやどうまん)に殺害された場所であり、晴明が呪法を駆使して保名を蘇生させた場所でもあります。

晴明は二人の式神(しきがみ)を、この橋の下に隠していたとされます。
今の一条戻橋は新築されたものですが、昔の欄干は道路を隔ててすぐのところに位置する、晴明神社(晴明住居跡に建立)に保存されています。


※伏見稲荷神社のお狐さんによると、 一般の陰陽師は二体の式神を使っていた者が多かったそうである。
晴明公の場合、使える式神は13体もいたそうである。その能力によって晴明公が使い分けられていたそうである。
橋下から式神を出すのは一度に二名までだったそうである。
式神は全てが地獄に落ちた元役人の魂だったそうである。役人時代の罪滅ぼしに晴明公の手伝いをしたのだそうである。
平安時代、陰陽師は皆それなりに高い地位にいたからである。そうでなければ扱えなかったであろう。
式神を操るには龍神様(黒龍様)の慈悲(=水)の力が関係しているそうである。
彼ら(式神)を橋の下に置いたのは、彼らは暗い水のあるところにしかいられないからである。
彼らを使役できる時間は夜7時から10時くらいまでだったそうである。






安部晴明出生の謎 



「いまから千年以上昔、阿倍野に安倍保名(あべのやすな)という男が住んでいました。

あるとき、和泉(いずみ)の信田明神(しんでんみょうじん)にお参りをすませて帰ろうとした保名の元へ、狩りで追われた白狐が逃げてきて、これをかくまってあげました。(狐を苛めてはいけません。狐に限らず、動物を苛めれば祟り、大事にすると良い事があります。これは自分に置き換えれば当然だと思います。)

その後、白狐は女の人になって、保名のところへ来ます。名前は葛乃葉と名乗りました。ふたりは結婚して阿部神社の近くに住み、やがて子供が生まれ、安倍童子(あべのどうじ・晴明の幼名)と名付けました。」

狐は古来から、霊力を持った動物として崇められており、白狐であった母親を持つ晴明は、天才陰陽師として君臨することになるのです。

晴明が阿倍野の出身というのは、安倍晴明神社の記録としても残っています。

安倍晴明神社に伝わる『安倍晴明宮御社伝書』には、安倍晴明が亡くなったことを惜しんだ上皇が、生誕の地に晴明を祭らせることを晴明の子孫に命じ、亡くなって二年後の寛弘四年(1007年)に完成したのが、安倍晴明神社であると記載されています。

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↓葛乃葉








葛  乃  葉



葛乃葉などの霊狐と呼ばれるものは肉体を卒業した狐である。
神様のお手伝いをする眷族(稲荷狐)、一般の狐に大別される。

眷族はその力、能力を稲荷大明神に認められたものである。
葛乃葉は信田山に居た時は一般の狐であった。

しかし、その能力によって晴明を世に出したのである。
霊狐(稲荷狐)は星が解るのだそうである。
葛乃葉に天文を教えたのは伏見稲荷神社の優秀なお狐さんだそうである。

そして、晴明は葛乃葉の指導により天文博士にまでなったのである。
晴明亡き後、葛乃葉は稲荷狐と認定されたのである。

現在、葛乃葉は伏見稲荷神社の清明舎(禊道場)にいるとの事である。


安倍晴明  安倍晴明神社  京都の晴明神社