川崎大師のお狐さん
※ご注意 日本の開運の全てのサイトは、新興宗教の信者、金の亡者は全て閲覧禁止です。
該当されると思う方は、速やかに退場してください。
 
川崎大師に向かう表参道
 

kawasaki_daishi_0609_sandou.jpg

どこの参道にも似た雰囲気があります。
心の安らぎを感じます。
この写真は菩薩様もお気に入りなのだそうです。
 

kawasaki_daishi_0609_sandou2.jpg

 

kawasaki_daishi_0609_sandou3.jpg

 

kawasaki_daishi_0609_sandou4.jpg

 

kawasaki_daishi_0609_sandou5.jpg

 

kawasaki_daishi_0609_sandou6.jpg

 

kawasaki_daishi_0609_sandou7.jpg

 

kawasaki_daishi_0609_sandou8.jpg

 
川崎大師の山門
 

 
川崎大師の本堂
 

kawasaki_daishi_0609_hondou.jpg


 
   

 

川崎大師の大提灯です。
とても立派です。
二回お参りに行きましたが、これが
一番印象にあります。
次の印象はあまりに込んでいるこ
とです。
お正月に行ったのがいけなかった
のかもしれません。^_^;

 
 平成17年1月12日、私の知らないお狐さんが訪ねてまいりました。
社主が知っているお狐さんで、東京の方から来たと言いました。
そして、お狐さんの後からまばゆい光の菩薩様が降臨されてきました。
菩薩様は、川崎大師から来たと申されました。
全国的にも霊験あらたかなお社として知られる川崎大師です。
この菩薩様は普段は本堂に居られるそうです。
そしてお狐さんは裏手にある福徳稲荷社に居られるのだそうです。
私も川崎大師は二回行きましたが稲荷社があるとはまったく知りませんでした。
お狐さんが訪ねてきてくれなかったら、一生知らなかったかもしれません。^_^;

・中々、川崎大師に取材のお参りに行けなかったのですが、川崎大師の菩薩様が、さいたま市浦和の調神社に来てくださいました。
 こちらにリンクを作成いたしました。
1.中山道入り口より、奥に見える光の玉が川崎大師の菩薩様です。
2.調神社の池の上に現れた川崎大師の菩薩様
3.奥の院脇の広場に現れた川崎大師の菩薩様
案内図

kawasaki_daishi_0609.jpg

 
kawasaki_daishi_0609_5jyuunotoh.jpg(93315 byte)
夢の世界で菩薩様に案内されたのは、この五重の塔でした。
空を飛んでいったので最上階に到着して上から降りていきました。

下の写真に菩薩様と同道されたお狐さんが写っています。
 
 福徳稲荷と言うお社だそうです。さすがに弘法大師は、お狐さんの優秀なのを知っていたのです。

kawasaki_daishi_0609_inaridou_0.jpg

 

kawasaki_daishi_0609_okitunezou.jpg

 こちらには14体のお狐さんたちが居られます。伏見稲荷から4体、笠間稲荷から8体来たそうです。
 下はお狐さんです。立派な光です。クリックすると大きな写真が出てきます。
 この光の玉は笠間稲荷から参られた筆頭様です。
 お願いは身分相応に、欲をかいてはいけません。

お狐さん 2007/12/22

 下の写真は、皆さんを守っていてくださる川崎大師のお狐さんの顔です。とても優しそうな顔です。
その右手(向かって左)に居られるのは托枳尼眞天様です。→「コン」

お狐さんの顔

 

 お狐さんを手伝う2体の狛犬。かわいいです。この2体を合わせて、合計で14体です。

kawasaki_daishi_0609_komainu.jpg

 

kawasaki_daishi_0609_kamenoike.jpg

 

 

 

 

 お釈迦様の像

kawasaki_daishi_0609_oshakasama.jpg

 

kawasaki_daishi_0609_neko_01.jpg

 参道脇の家の猫。とても幸せそうです。

菩薩様とお狐さん
菩薩様 興教行大師
 興教大師とは平安時代後期の高野山の僧で、空海以来の学僧と言われたのが覚鑁(かくばん)である。
根来寺は大治5年(1130年)に高野山内に一堂を建て、伝法院と称したことに始まる。

 その2年前、高野山の尊賢上人が諸国遊化の途上たまたま兼乗のもとに立ち寄られ、尊いお像と、これにまつわる霊験奇瑞に感泣し、兼乗と力をあわせ、 ここに、大治3年(1128)一寺を建立しました。
 そして、兼乗の姓・平間をもって平間寺(へいけんじ)と号し、御本尊を厄除弘法大師と称し奉りました。 これが、今日の大本山川崎大師平間寺のおこりであります。

鳥羽上皇は覚鑁に帰依し、荘園を寄進するなど手厚く保護した。2年後の長承元年(1132年)、覚鑁は鳥羽上皇の院宣を得て、高野山に大伝法院と密厳院(みつごんいん)を建立した。
 さらに2年後の長承3年(1134年)、覚鑁は金剛峯寺座主に就任し、高野山全体を統轄する強大な勢力をもつに至る。
 
 覚鑁は当時堕落していた高野山の信仰を建て直し、宗祖空海の教義を復興しようと努めたが、高野山内の衆徒はこれに反発し、覚鑁一門と反対派は対立しあうようになった。保延6年(1140年)には、覚鑁の住房・密厳院を含む覚鑁一門の寺院が高野山内の反対勢力により焼き討ちされるという事件が発生した。

 覚鑁一門は高野山を下りて、大伝法院の荘園の一つである弘田荘内にあった豊福寺(ぶふくじ)に拠点を移した。さらに新たに円明寺を建て伝法会道場とする。豊福寺・円明寺を中心として院家が建てられ、一山総称としての根来寺が形成される。覚鑁は3年後の康治2年(1143年)、円明寺で没する。  
 それから1世紀以上後の正応元年(1288年)、大伝法院の学頭であった頼瑜は大伝法院の寺籍を根来に移し、この頃から大伝法院の本拠地は高野山から根来(現在地)に移った。
以下は真言宗、智積院(ちしゃくいん)のサイトより引用させていただきました。

興教大師とは、弘法大師が入定(にゅうじょう)されてから約300年後、高野山の宗風が活力を失いつつある時、その状況を憂い、弘法大師の教えを再興するために様々な改革をしたのが、興教大師覚鑁上人(こうぎょうだいしかくばんしょうにん)(1095-1143)です。
 興教大師は嘉保(かほう)2年(1095)6月17日、現在の佐賀県鹿島市に生まれました。16歳で得度(お坊さんになること)した興教大師は、やがて高野山に上り、大治(だいじ)5年(1126)、弘法大師の教えを学び、議論する学問所、伝法院(でんぼういん)を創建されました。こうして高野山は、多くの学匠の輩出とともに、昔の活気を取り戻していきます。しかし、長承(ちょうしょう)3年(1134)、興教大師が高野山金剛峯寺の座主になると、このような興教大師の改革を良く思わない一部の僧侶の激しい反対にあい騒動が起こるようになります。やがてこの争いは大きくなり、ついに興教大師は座主を降り、保延(ほうえん)6年(1140)、かつて寄進を受けた地、根来山(和歌山県)に移られてしまいます。
 その後、根来山の整備をすすめますが、根来に移ったその3年後、康治(こうじ)2年(1143)12月12日、49歳で入滅されたのでした。

 興教大師覚鑁上人は、弘法大師の教えを再興するとともに、学徒を養成し、後に「新義」といわれる真言宗の教学を確立しました。このため、真言宗中興の祖とお呼びします。真言宗智山派の寺院で、宗祖・弘法大師と中興の祖・興教大師の両祖大師の御尊像をお祀りし、「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」、「南無興教大師(なむこうぎょうだいし)」とお唱えするのはそのためです。

川崎大師の八角五重塔
説明
  私たちの総本山は智積院(ちしゃくいん)といい、京都の東山七条(ひがしやましちじょう)にあります。智積院は足利時代の中頃、興教大師ゆかりの根来山内の寺院の一つとして、長盛法印により創建された寺院でした。

 興教大師亡き後の根来山は、学徳に秀でた頼瑜僧正(らいゆそうじょう 1226−1304)により大伝法院(だいでんぼういん)や密厳院(みつごんいん)が高野山から移築されいよいよ発展し、天正(てんしょう 1573〜)年間には坊舎が2000余も立ち並んだといわれ、政治的にも経済的にも大勢力となります。しかし、この勢力に目をつけたのが豊臣秀吉でした。

 秀吉は、天正13年(1585)、根来山を攻めると、山内の堂塔伽藍を灰燼に帰してしまいます。この時、智積院の能化であった玄宥(げんゆう)僧正は弟子とともに難を逃れますが、安住の地が見つからないまま、智積院再興の志をもちながら各地を流転したのでした。やっと安住の地を得たのはその16年後のこと。慶長(けいちょう)6年(1601)、徳川家康により現在の京都東山に寺院を寄進され、五百佛山根来寺智積院(いおぶさんねごろじちしゃくいん)を再興したのでした。

 智積院は根来時代の伝統を踏まえ、特に「学山」として教学の研鑚や修行などを厳しく行い、また、他宗の僧侶や一般の学徒にも開放された「学問寺」としての性格を持つ寺として、江戸時代には多くの学匠を輩出するようになります。
 しかし明治時代になると、新政府の神仏分離政策により土地を没収され、また、明治15年(1882)には金堂が焼失するなどの不幸にみまわれます。しかしこれらの困難を乗り越え、明治33年(1900)、真言宗智山派の総本山となったのです。
 こうして弘法大師の教えは高野山から興教大師の根来山に、そして智積院へと脈々と伝えられ、現在、智積院は全国3000の末寺を擁する真言宗智山派の総本山であり、檀信徒の皆さまの総菩提所、総祈願所となっています。  
 以上で、興教大師が川崎大師に思いを寄せられていることの理由も少し解られると思います。

 下は興教大師の絵です。

興教大師
それにしても、豊臣秀吉は酷いことをしました。管理人は千利休まで殺した件の人間を下人と評価しています。

 徳川家康が豊臣を強引にまで根絶やしにした理由も、こんな所にあったかもしれません。
もちろん殺生はいけないのですが、政治が絡むので戦争が起こります。戦争は困ります。

 菩薩様は寺に僧兵が発生したのもいけなかったと言っています。あれは他所から来たのだそうです。
同じ真言宗でも、豊臣秀吉に酷い目に合わされた智山派と、替え玉に祭られたら豊山派があるわけです。

 ちなみに、霊験あらたかな本サイトの川崎大師、千葉の成田山、東京八王子の高尾山は皆が智山派です。
神仏の加護があるからです。ちなみに、私の家のお寺も真言宗の智山派です。

 お墓参りのとき、本堂で沢山の神様(菩薩様)を見たことがありました。

 
菩薩様の下の光の玉はお狐さんで す。
太郎子山稲荷神社の社主も、豊川 稲荷のお狐さんも、同じように写っ ています。
撮影した人は皆違う人です。
それも日本全国で撮影していま す。
霊験あらたかと言われる神社仏閣 ばかりです。
もちろん私のサイトに載っているお 社は皆立派な神様、眷属様のいる 所ばかりです。
安心してお参りしてください。
kawasaki_daishi_0609_odaishisma.jpg(93745 byte)
藁草履の塚と弘法大師の像。
弘法大師は当初は私度僧であった と言う。
権威も何も無い民間の僧である。
お釈迦様も王子としての一切の権 威や見栄を捨て出家され悟られた のである。
もちろん二度とそのようなものを求 めなかった。
これは頭でなく、心と体で悟られた からである。