西入口
丸墓山古墳

 その理由は何度も述べるように、ここは第3回仏典結集を行ったアショカ王、後に景行天皇様として践祚された方の 古墳だからです。古代の方は寿命が200年以上の方も多いです。アショカ王も280年ほど生きられたそうです。


アショーカ(Aoka)

生没年未詳

インド,マウリヤ朝第3代の王 (在位前 268頃〜232頃) 。漢訳仏典の阿育王。兄弟を殺して父王ビンドゥサーラの跡 を継いだといわれる。祖父チャンドラグプタ以来の領土拡張策を進め,即位8年目にカリンガ王国を征服して半島南 端部を除くインド亜大陸のほぼ全域の統一を完成させた。しかしカリンガ征服の際の悲惨なありさまに心を痛め,以 後は軍事的征服策を放棄し,非暴力と社会倫理に基づくダルマ (法) の政治を行うにいたった。仏教に帰依したのも この頃らしい。彼はダルマの政治の理想を近隣の国々に伝えるとともに,それを領内の磨崖や石柱に刻ませ,さらに 人畜のための病院を建てたり,道路に沿って井戸や休息所を設けるなど,さまざまな社会政策を実施した。北方仏教 の伝説によると彼は熱心な仏教徒として8万 4000の仏塔を建て,仏跡を巡拝し,仏教教団に巨額な布施をしたとい う。また南方仏教徒は彼が第3回仏典結集を援助したこと,彼の子のマヒンダがスリランカを開教したことなどを伝え ている。アショーカは 37 (あるいは 36) 年の在位ののち没したが,彼の死後マウリヤ帝国は崩壊に向った。
[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2010]

管理人注 アショカ王が兄弟を殺したというのは嘘だそうです。


 かって、ここにあった西行寺の住職によると、明治政府は、この事を知っていたそうです。私が言う馬鹿役人ども、 悪魔どもです。

 西行寺は神倭朝27代 安閑天皇様が建立されたのです。宗派は、安閑天皇様によると聖観音宗と言います。今は 浅草の浅草寺が、この宗派ですが、ここが本家だったそうです。聖観音とはアショカ王だったそうです。

 安閑天皇様は2年で没したとも言われますが、出家して西行寺に居たのだそうです。


あんかん‐てんのう【安閑天皇】‥ワウ
記紀に記された6世紀前半の天皇。名は勾大兄まがりのおおえ、また広国押武金日ひろくにおしたけかなひ。継体天 皇の第1皇子。(466〜535)
[株式会社岩波書店 広辞苑第六版]


安閑天皇(あんかんてんのう)
生没年未詳

第 27代に数えられる大和朝廷の天皇。継体天皇第1皇子。母は目子媛。マガリノオヒネヒロクニオシタケカナヒミコトと 称する。大和勾金橋に都し,皇后は春日山田皇女という。陵墓は大阪府羽曳野市の古市高屋丘陵。
[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2010]

 
 
 
 埼玉古墳には日本一の円墳、丸墓山があります。その理由は以下のとおりです。
佐間という土地は、インドの人が住みました。佐間の人はリグ・ベーダの次の時代のサーマ・ベーダの時代の人達で す。古代より、インドの古墳は円墳なのです。前方後円墳はエジプト、日本のものです。皆神代のものです。
 丸墓山は神々によると、ウガヤ31代の時に作られたものだそうです。リグベーダの時代は五千年前と言われますの で、サーマベーダの時代から四千年程度は経っていると思われます。

 日本第2位の円墳古墳は旧大里郡の甲山古墳です。平成20年10月23日、調査に行ってきました。

 古代蓮も三千~四千年前のものだと言われていますから、根拠になりそうです。もちろん、古代蓮もインドの人が持っ てきたのだそうです。佐間のご先祖様は下の坂東(Pandoh)という土地から平和を願って、蓮も持ってきたのだそうで す。下にインドのドーム型古墳を紹介いたします。最初のは世界遺産のようです。

 丸墓山も、このようだったのですが、悪魔どもが山頂の石碑を取り除いてしまいました。
坂東の人が行田の佐間に引っ越してきたのは、敵が攻めてきたからだそうです。
良識ある人は、馬鹿とは戦いません。戦争等、行ってはいけません。佐間は広いです。
 坂東太郎のそばに、関東最大の同和の村、南河原村がありました。
 
下は航空写真です。ここは亜細亜(アジア)の始まり「阿字(アジ)」なのだそうです。
阿字とは丸墓山のような形状を現します。丸墓山古墳の右には水があります。かっては右部分は川だったそうです。
下はドイツのローレライと言われるところです。聖地です。本来丸墓山もこの様に水が回っていたそうです。
水は邪を清めるのです。
下はインドのプネと言うところです。船の語源です。
重要な土地として、稗田阿礼神様に案内されました。以上は、皆「阿字」です。
 平成18年3月桜の咲き出した丸墓山古墳です。
さきたま古墳群の中で、ひときわ大きくそびえ立つのが丸墓山古墳です。
高さは約19m。「日本最大の円墳」と説明されることが多く、かの石田三成がこの古墳から忍城を眺め、水攻めの戦略に 踏み切ったことはよく知られています。
 埼玉村古墳群の石碑

 2008年5月4日 火祭りの幟
かつて丸墓山古墳の麓には“西行寺”という寺があり、「國王山地蔵院」と号し、延命地蔵を本尊としていた。
『湯本家文書』の中に「國王山地蔵院西行寺丸墓山之図」と称する幕末の丸墓山と西行寺を描いた絵図が所在。

お寺があったのは、この先である。丸墓山古墳の麓にあった西行寺は明治時代に廃寺。
その面影はもうない。当時の住職によると、明治政府(=イ)の廃仏毀釈にやられてしまったそうである。
この世は、恐ろしき悪魔の世界である。
かって、ここにお寺があったそうです。沢山の眷属の皆さんが案内してくれました。
悪魔の手先により、古墳の上から撤去されたという石仏です。
 山頂の桜
 丸墓山古墳の山頂は平らです。
丸墓山古墳は、かっての西行寺のものだったそうである。
廃仏毀釈によって、真実が葬られたのです。悪魔の所業です。

廃仏毀釈  
はいぶつきしゃく 

明治初年,維新政府の神道国教化政策に基づいて起こった仏教排斥,寺院・仏像・仏具破壊運動。1863年旧3月, 太政官布告による神仏判然令によって神仏分離が急激に実施されると,平田派国学者の神官らが中心となって,各 地で神社と習合していた寺院の仏堂,仏像,仏具などの破壊・撤去運動を起こし,隠岐のごときは全島の仏寺を破毀 して1寺も残さなかった。1875年に信教の自由が保障されたが,この廃仏毀釈によって政府は宗教に対する政治優 先の姿勢を確立した。⇒復古神道

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 この丸墓山は吉見のポンポン山(玉鉾山)を摸したものである。

 ポンポン山の御祭神は味鋤高負彦根命(あじすきたこうひこねのみこと)が居られる。鋤とはスペードで剣、農具を現 す。
 こちらは大きな岩で、この山自体がご神体で、高負彦根神社がある。ここにも三猿がある。もちろん川もあったそうであ る。アジアのはじめの阿字だったのである。

 稗田阿礼神様によると、丸墓山も上古の12代様の時からあったそうである。
埼玉古墳で最初のものだったそうである。
埼玉県比企郡吉見町ポンポン山 高負彦神社
さきたま古墳公園航空写真
 
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