舎人とは


 ひえ た の あ ら
稗田阿礼
舎人(とねり)とは
1.本来(大化以前)は天皇・貴族らの近習(きんじゅ)の意で,護衛を任務とした。

2.律令制(大宝、養老律令、大化後)では,貴族の子弟で天皇に近侍する内舎人(うどねり),下級官人や庶民の子弟で 朝廷に勤める大舎人,同じく皇族・貴族に近侍する帳内(ちょうない)・資人(しじん),地方豪族出身で武官の兵衛(ひょうえ) などの総称。内舎人はまもなく高官,他は多年勤務して下級官人となる。

「とね」については以下の説明がある。
刀禰 ( とね)とは
 まず漢字については、後に当てたものである。音を重視するのが歴史の大事である。律令制下では主典(さかん)以上 の官人の称。公事(くじ)に関与する。稗田阿礼神によると「とね」という官位は神倭朝8代の孝元天皇の時代からあったそ うである。ローマ帝国の手先の中国が侵略してくる前には、日本は違う文字を使っていたそうである。日本の漢字も中国 から来たというのは、中国得意の嘘である。
 神代文字はすごい種類があったというが、役人はそれぞれの持っている文字で文書を記録したそうである。もちろん文 書を偽造されない為である。

さ‐かん【主典】‥クワン
(「佐官」の字音。「佐」はたすける意)律令制の四等官しとうかんの最下位。公文書の授受や作成を担当。官司によって文 字を異にし、太政官・神祇官では「史」、省では「録」、弾正台では「疏」、使では「主典」、職・坊・寮では「属」、司・署では 「令史」、近衛府では「将曹」、兵衛府・衛門府では「志」、大宰府では「典」、鎮守府では「軍曹」、国司では「目」、郡司では 「主帳」などと書く。
[株式会社岩波書店 広辞苑第六版]



じんぎ‐かん【神祇官】‥クワン
#大宝令(701年)に制定された官庁。太政官と並立し、神祇の祭祀をつかさどり、諸国の官社を総管。職員は四等官と、 伴部として神部かんべと卜部など。かむづかさ。かみづかさ。
#明治元年(1868)閏4月に置かれた官庁。神祇・祭祀・祝部・神戸を総管した。同4年格下げして神祇省と改称し、太政 官のもとに設置。翌年廃止。事務は式部寮・教部省に移管。
[株式会社岩波書店 広辞苑第六版]

舎人は平安時代には郷・保・村の役人の称となり,公に仕える者の総称となった。平安末期以降は荘官組織の最末端に その名をとどめ,神社の下級神職の称ともなった。

以上が一般的な解説であると思う。下は補足、最近の解釈である。
おおとねりのつかさ
大舎人寮

 禁中(皇居、宮中)に宿直して雑事に従事し、行幸のときには供奉する他、「大舎人」に関する事務を担当する。
広辞苑などから「寮」はつかさ(務、司)とある。<和名抄(5)>
 寮は、官舎の意味。大寮と小寮がある。かっての鴻巣市の旧農林省官舎群も大きな官舎(上級)と小さな官舎があっ た。
 大寮は、大舎人、図書、内蔵、縫殿、内匠、大学、雅楽、玄蕃、諸陵、主計、主税、木工、左右馬、兵庫、斎宮の15寮 で、部の民と言うところだと思う。 

小寮は、大炊、主殿、典薬、掃部の5寮。
大寮の方が、小寮よりは官位の相当が高い。

  一人、大舎人を支配して、禁中に宿直する職。下に、助一人。その下に、大允、少允、大属、少属、各一人、および 大舎人が400人いた。
大舎人助は、一人で、行幸のとき、鳳輦〔ほうれん〕の綱を取る役を担当するので『みつなのすけ』とも言います。
大舎人は、宿直して警衛駆使の雑事をし、行幸のときには供奉を勤める職です。

大舎人の大は、内舎人の内に対してつけられたものである。
内舎人の内は、禁内のことで、律令制では中務省に属した。安倍晴明も居たところである。
平安時代には律令が改革され、身分(四、五位)の人の子息や孫から選抜された。

近衛(このえ)
内裏内の警衛・夜警、及び、天皇行幸の際の護衛や高級官吏の護衛を担当する職で、位階を持つ人の子息や勲位があ る人を試験して、上奏したのちに採用します。定員は左右各300名です。『近衛舎人〔とねり〕』とは将監以下の近衛府の 役人全般を指して言うものですが、主に『近衛』を指していう。

小舎人〔こどねり〕
「出納〔すいのう〕」と共に「納殿」の出納、その他、「新蔵人」の任官があった際、その旨その人の家まで告げに行くお使い をしたり、禁内に犯人があったときにそれを捕らえ検非違使に引き渡す等、種々の雑用を担当します。

東宮舎人
 春宮坊に属し、東宮舎人の名簿、礼儀、分番を司る役所。

 舎人は時代を下がり、段々と評価、位置づけが下がってきている。これは、本来の舎人を忘れてしまったからであ る。
 本来は、インドやエジプト、ドイツなどから来た人たちであった。「とねり」は利根川の利根にもつながっている。最も 尊い真水のようである。神代から、その役はあったのだそうである。
「と」がインド模様を現わし、「ね」がエジプト模様を現わすのだそうである。「り」は吏で役人だそうである。
埼玉古墳群中の二子山古墳も舎人のものだそう である。

 12人の舎人を、一つの大使として陵(おか)が 創られたそうである。

 ここには無数の古墳があったそうである。

 下の円内の消えた古墳は、現在のフランス辺り の方の方のものだったそうである。

 その前にあったのが常世岐姫神社である。
この辺りの地形が、妙におかしいのは古墳があ ったからである。

ここが常世岐姫神社である。渡柳にはイエメンのシバムから沢山の人が来た。
大明神様の御降臨
次は埼玉(さきたま)と蓮田を結ぶ77号線の側にある舎人という地名。かなり広かったと思われる。現在の官舎村の ようなものがあったそうである。ここはインド人が7割、エジプト人が3割だったそうである。県道77号線の先の蓮田に 黒浜がある理由も分かると思う。
次の写真は平成20年5月4日の埼玉(さきたま)火祭りの写真である。
無数の神々が降臨された。○印が稗田阿礼神様である。強い光は稲荷狐の皆さんです。
前玉神社(さきたまじんじゃ)宮司の服は、この模様である。
 関東に、もう一つの舎人の里がある。東京都足立区入谷である。
ここは、インドの舎人、エジプトの舎人に加え、ドイツ、イタリアの方も居た。それで、鹿浜がある。

 私のサイトで学んだ方は、ストーンヘンジの記事で、その理由が解ると思う。鹿浜の地名が何故あるか、理解できる のは、この地球で皆様くらいである。
 ここの官舎村に居た人の古墳は下の地図の土地にあったそうである。
 前方後円墳もあったのだが、全て中国人に破壊されたそうである。行徳、市川や鬼越、鹿骨、さらには柴又と言っ た地名までも、私のサイトで勉強された皆様は理解できると思う。